アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.67

千葉節子とTomoko k. Ober 2人展
アール・プラネタムール(ジャポニスム 2018)-2018年12月4日~16日-

私はおよそ20年前、パリで千葉節子のパフォーマンスと詩作の発表を見て、彼女のアーティストとしての実力を知った。その後2015年に東京の私の個展に訪れた彼女と久しぶりに様々な話をすることができた。その時、福島県白河市で彼女の写真による現代アートの展覧会が開催されることを知らされて見に行ったことがあった。それは、福島の原発事故から4年目になる梅雨の予感を孕んだ青葉が燃える五月の末のことであり、千葉節子のアトリエが存在する白河から見た福島の空、そして世界の空へ、さらに宇宙的へと繋がる「希望と愛」の溢れる作品だった。それらの作品を見た私は感動を覚え、ぜひパリの人たちに見てもらいたいと思った。

私たちの展覧会、「アール・プラネタムール(惑星の愛を表す人々)展」は、連日のマニフェスタシオン、いわゆる黄色ベスト運動で戒厳令の二つ下のレベルという緊迫した状況のパリにおいて、まさに地球という奇跡の生命の惑星の言葉と律動にわずかながらも触れる機会を提供する場として、訪れる人々に愛された。リピーターが通い、「ぜひ、また展示して欲しい」とのアンコールの声があがった。

千葉節子の展示作品は、華麗でダイナミックな大空の様々な自由な姿を表した写真のコラージュの他に、詩的なインスタレーションと独創的な平面立体の現代アート。一方、私の作品は、鳥や魚の目に映る空と海と地球、というコンセプトで描いた大きなもの、190cm×130cmの抽象画だった。

オープニングでは、千葉節子のポエトリーパフォーマンスが行われ、古代の神殿や未来からの旅人を思わせるような演技と共に、人類と惑星の希望を示唆する彼女の詩が、遺伝子の記憶を心地良く刺激するノスタルジーの香り漂うオーガニックでミステリアスなミュ―ジックをバックに朗読された。来廊者は、彼女と、彼女が作る空気の周りを息をのむように見聞きし、感動のショックを与えられたのだった。これらはジャーナリストのジャン・マニアンによって30分の動画に収められ、現在も、彼が主幹を務めるインターネットTVで観ることができる。

余談だが、2018年は「ジャポニスム2018・響きあう魂」(日仏友好条約160年記念)の年であり、2019年の初めにかけて、パリをはじめフランス中で日仏の文化と芸術のイベントが行われている。彼女は日本の関係者(国際交流基金)による厳格な書類審査に通り、私たちの展覧会のための正式なロゴの申請許可を取得した。

ギャラリー前のトモコとトモコの作品

ギャラリーのドア越しに佇む節子。節子にはパリの空気も水も合っている

トモコ・k.オベール

千葉節子。リピーターから贈られた薔薇の花と共に

アール・プラネタムールのDM。展覧会は大好評だった

家族の影響で広い世界を知る

「仕事の関係でロンドンやミラノを何度も行き来していました。パリは、惹かれながらも何故か訪ねる機会がみつからない、いわば不登校状態でしたが、こうして訪れれば、私にとっては変わりないパリで、まさに故郷に戻った感じですね。マニフェスタシオンの影響なのか、人々の表情にダークな印象を覚えましたが、会話が弾むと私が親しんできたパリの人々の笑顔になるので、ほっとさせられます」と、彼女は現在のパリを感じたままに話してくれた。

早速本題に入り、どんな学生時代であったのか聞いてみた。「大学では経済が専門でしたが、私の生涯の仕事となる詩やエッセイ等の執筆業において、実は大変にありがたいことに、大学卒業前にすでにお仕事をいただき、印税収入を得るというとても恵まれた環境にありました。ご依頼いただいた方は、ご親族が世界的に有名なヴィジュアルアートの巨匠で、ご本人は、演劇評論家でもありました。その後、当時毎月、何十万部も売り上げていた人気雑誌や、大手新聞社に連載を執筆するようになりました。有名作家の大ベストセラーを数多くプロデュースしてきた一流の出版人や編集者から厳しい現場の薫陶を受けながら育てていただいたのです。その下積みの時代があったからこそ、現在の詩人として、また、アーティストとしての仕事をお蔭様で続けられていられるのだと思います。出会う方々のお一人お一人には、常に敬意を抱きますが、特に、その当時お世話になった方々への深い感謝の言葉は今も尽きることがありません。書くとは世界と人々を結ぶ愛であり誠意であり、言葉を選ぶとはその使命の行為であるという、書くことの基本を命に刻むことができたからです」

その後、一流の文化人や財界人を取材し、著名原稿の連載を何本も持つ売れっ子の記者の時代を、千葉節子は自らの意志で去ることになるが、その理由は何であったのか尋ねてみた。

「一言で言えば、次の人生の扉が開いてしまったということなのかもしれません。1994年の冬、急にNYでポエトリーパフォーマーとしての出演が決まりました。アーティストとして海外での事実上のデビューです。そして、同時に有名な音楽プロデューサーの方と音楽会社に、英仏語訳が付いた詩集を作っていただける話が進んでいました。未知なる広い世界へ続く道が目の前に現れ、私の人生が、私よりも先にどんどん進んでしまったのです」

彼女の「広い世界を知りたい」という欲求は両親の教育方針に由来しているようだ。「私が子どもの時、母は『少年少女文学全集全50巻』を毎日眠る前に枕元で読み聞かせ、ヨーロッパの子守り歌を歌ってくれました。一方、父は私が幼稚園児だった頃にはすでに、英会話のテープを聞かせてくれました。そんな家庭環境が私を開かれた世界に誘うきっかけになりました。小学生の低学年の頃には地域の教会に自分の意思で通い、クリスチャニズムに触れました。宗教を通して世界が何でできているのか知りたかったのだと思います」

節子の作品(部分)。一つ一つの作品のタイトルは彼女の生命への慈しみを表す詩でできている

大空をモティーフに希望を表す節子の作品と節子

”鳥のように、魚のように”、と自由を謳うトモコの作品

トモコのアクリル画(左)と節子のコラージュ

来訪者のコメントは二人の展覧会への賛辞に溢れていた

節子。何気ない仕草にもポエトリーパフォーマーとしての佇まいが

ギャラリーのオーナー、コレット(中央)と友人たち

夫のアンリと

トモコの作品の前で友人のアメリカ人写真家ヤーンと

10年間の病を経て

NYでデビューした後、パリでも順調に仕事が進み、カンヌ映画祭に出品する映画の助演女優としての仕事の依頼が来るなど仕事も生活もすべてがうまくゆき、人生を夢中で駆け抜けていた彼女を突然病が襲った。2011年、NYで同時多発テロが起きた年の冬のことだった。

「私は一つの字を書くのに何時間もかかるほどの心身の病に死ぬほどの苦しみを覚えました。ところが、苦しみながらも意外と冷静なのですね。『この病には必ず意味がある。それは何だろう』などと考えている自分がいるのです。自分を客観的にみつめる力は、ジャーナリストとしての経験が培ったものかもしれません。そして、その答えは、闇が暁を求めるように、本当の希望は最も過酷な中に生まれいずるものであり、そこで出会った希望ほど、その後の人生を力強く支え続けるものはないという確信でした。病は誰にとっても辛いものです。けれども、病を経験した人々は、人生の深さを知ることができたという、ある意味で、選ばれた人たちなのかもしれません。その人たちは、例えどのような苦しい状況だとしても、今この時を生きることの奇跡を深い次元で体験したのです。ラテン語に『死を思え』という有名な言葉があります。日蓮仏法にも、臨終を習うことの大切さを記した教学があります。死を正しく見つめることで初めて本当に充実した生の存在が生まれることを説いた希望の哲学でもあるのです。私たち病を経験した人間は、希望を作り、伝えてゆかなければなりません。それが病を得た意味であり、そしてそれはきっと、自身と世界の両方に優しさと強さを育む『人生の贈りもの』であると思うのです」

10年という長きに渡り病と闘い、幸いにも乗り越えた彼女だが、病身にもかかわらず「インスピレーションが湧いたから」とイタリアのミラノへ行き、そこで出会った世界的なファッション誌の有名ディレクターからモデルの仕事を依頼され、20ページに渡り自らの詩を英語と日本語で掲載するなど、新しい彼女の世界を拓いている。そのエネルギーがどこから生まれるものなのかを知るためにも、今後の彼女の活躍から目を離さないでいようと思う。一方、学生時代から難民問題に関心を寄せ、作家の故犬養道子(*1)のアフリカの砂漠の緑地化計画に参加し、又、南仏で交通事故に遭ったにも拘らず、その足でインドシナ半島のカンボジア難民のキャンプを特別なパミッションを得て取材した著名記事が、実は、ジャーナリストとしての初仕事だったことを、今回パリで再会したことで初めて知ることができた。

節子は3週間のパリ滞在を価値的に過ごしていた。夜明け前に起きて執筆の仕事をした後、モンマルトルの丘に登り、パリの景色を撮影し、その後、私たちの展覧会が行われているギャラリーの仕事に就くリズムを続けた。パリでも市民がスマホを使う日常の風景が「古き良きパリ」を遥か昔に遠ざけていているように思えるが、そんなパリは、節子にはどう映ったのだろうか。話しているとイタリア語や英語がつい出てしまう節子は、実にパリの水も空気も合っていて、全てをポジティブに捉え、楽しみ、良い休日にもなったようだ。

展示期間中に「黄色いベスト」のデモが何回かあった。セキュリティのために画廊を1日閉じたことがあった。何しろ私たちの作品が展示されたギャラリーの周りは、バスティーユ広場、ナシオン広場、レプブリック広場という市民が声をあげて闘う中核の広場が存在するのだから。しかしデモで市民に大きな障害はない。どんどん追い詰められて貧困に陥るシステムは、人々にとって闘う当然の権利を増長させるものであり、今その怒りが爆発しているのだ。あのフランス革命時の闘うDNAのある国民を思い出させる。しかしそれは、節子が言う「闇が暁を求める」姿なのかもしれない。まさに彼女の大空のコラージュや私の作品の鳥や魚のように、惑星の愛を語る必要がある時代に、誰もが皆生きているのだと思うのだ。

「黄色いベスト」の市民たちのデモ。
オペラ座の前で(2019年1月5日)

市民とポリスの衝突で遠くに煙が

1)犬養道子 1921-2017 評論家・小説家。 首相を務めた犬養毅の孫。カトリック教世界の飢餓や難民救済に尽力。

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家)

【千葉節子プロフィール】

詩人・美術家・ポエトリーパフォーマー。90年半ばに首都圏より福島県に移住。ジャーナリスト等を経て、NY、パリ、東京でポエトリーリーディングのパフォーマンスライヴを行う傍ら現代アートに携わる。2011年3・11以降、FUKUSHIMAの空を日常的に撮影し、フォトアート・インスタレーションにした個展を東京等で開催。受賞歴に18年第64回白河市総合美術展覧会写真部門市長賞(グランプリ)他。フランス日本大使館公演の他ナント・アートフェスティヴァル等に招待出演。ドキュメンタリー番組「天使・千葉節子」等TV放映。フランスの音楽会社よりCDを発売する他著作物を発表。詩、エッセイ、美術評論を寄稿する。

http://setsuko-chiba.amsstudio.jp/profile_setsuko_chiba.html
TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。