アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「BIOS電子版」No.10

エレクトーン奏者・ジャズピアニスト-倉沢 大樹-

長野オリンピックのハレの舞台で

1998年2月、長野冬季オリンピックに世界中が沸いていた。20世紀最後の冬季オリンピックに日本はジャンプ選手団を初め大活躍。冬季オリンピック初の最多数10個のメダルを獲得した。

このオリンピックというハレの舞台で、エレクトーン奏者倉沢大樹は長野市内「セントラル・スクエア」において行われたスキー競技など屋外競技の表彰セレモニーの際のすべての演奏を担当した。映画音楽、ジャズ、フュージョン系の曲を中心にアレンジし、オリンピックの音楽担当者のひとりとして大イベントを華やかに盛り上げたのである。

「3週間も演奏できるんだってうきうきしていました。1週間前から現場に行って打ち合わせをしていくうちに、事の重大さがだんだん分かってきたんです」と、20代半ばで担った大仕事を振りかえる。

「現地に行ってからイメージが湧いてきました。オリジナルの曲をその場で次々に作りました。表彰式のみで7、8曲。屋外競技は山の上なので、表彰式ができないですから『セントラル・スクエア』で夜やったんですよ」と、エネルギッシュに作曲と演奏をこなしていった当時を語る。

このとき、世界中のアスリートたちをはじめオリンピック関係者、そして放映された画面の前にいる世界の人々が倉沢大樹の音楽を耳にしながら感動的な表彰式に見入っていた。若き音楽家のハレの舞台は彼の演奏者としての道を決定付けることになった。

「表彰式のために夜は演奏しますから遠くに行くことはできませんでしたから、選手村の食堂や長野市の駅の中などでボランティア演奏をしていました。この長野オリンピックでの演奏をきっかけにコンサートに呼んでいただけたりしました。たくさんの人と繋がることができましたので、演奏をさせていただいたことは本当にありがたいことです」

05年、長野で行われたスペシャルオリンピックスでも音楽で多いに貢献した。

テーマ曲『栄光の軌跡』を制作し、冬季オリンピック同様に会場を盛り上げた。

倉沢 大樹

500円のはじめての演奏代

今や、日本屈指のエレクトーン奏者として活躍している倉沢大樹の音楽への導きは、家庭が原点であった。

「父がこの世界に導いてくれた。面と向かってありがとうとは言えないんですが……。ポイント、ポイントで父に役に立ってもらっています」

照れくさそうに父の話をする。両親はレコード店を経営していた。父は今もライブハウスなどで活躍する現役のサックス奏者である。いつも音楽があった家庭。ジャズは母の胎内にいたときからすでに聴いていた。

人前で演奏することは子どもの頃から抵抗がなかった。小学校では音楽の時間の前にピアノを弾いてコンサートをしていた。家に客がくると聴いてもらっていた。「聴いてくれる人がいると父が止めるまで弾いいました」という。演奏することが嬉しくてたまらなかった。

小学校4年生のとき、父の会社主催のピアノ展示販売の催事に借り出された。デパートで朝から晩まで流行りの歌謡曲を、エレクトーンで演奏してアピールした。倉沢大樹のコンサートの原点である。聴いていたおばあさんに、「シルクロード」のテーマ曲をリクエストされ、演奏が終わると500円をもらった。はじめて演奏することで稼いだお金であった。「嬉しかったですね。今でもお年玉袋に入れてとってあります。それは一生使えないですね」

父が活動しているバンドで初めて演奏したのが中学1年生であった。シンセサイザーを買ってもらいバンドの一員として活動。栃木放送のラジオ番組「我ら音楽仲間」にもバンド仲間と一緒に出演した。

「初心に返るためにその時の録音を時々聴きます。今聴くと恥ずかしいですが、当時の自分では良くやったかなと思います」。サックス奏者の父の影響で十六歳からすでにジャズ演奏をはじめていた。

コンサートで

ジャズライブで仲間と

音楽に始まり音楽に終わる人生

音楽科のある高校に入学すると、「初めてのことが多かったし、ライバルが出現しました。今までは自分だけでやっていましたし、発表会そのものはあまり経験していなかった」

同じような道を目指している友達がたくさんいる中での環境に戸惑いつつも、「刺激になりました。一番になりたいっていう気持ちにしてくれたんです」

子どもの頃から大学受験までの順風満帆の日々、初めて壁にぶつかったのが大学卒業を目前にしてのことであった。

「何をしていけばいいのかわからない。このままでいいのかと思っていた時に、大学の最後の年にコンクールに出ました。それまで二度コンクールに出ていましたが成績はよくなかったんですね。今まで無理にオリジナルの曲を作っていましたが弾きたいものを弾こうと思ったんです。当時はまっていたジャズで臨みました。そうしたらトントンと進んでいきました」

93年大学卒業最後の年、シンガポールで開催された第30回インターナショナル・エレクトーン・フェスティバルに日本代表として出場。世界21カ国、約7万人の中から見事グランプリを受賞。各国の審査委員から絶賛され、世界一のエレクトーン奏者としての冠を得た。奇しくも5年後に冬季オリンピックが長野で開催されることが決定されていた。

94年に宇都宮市民賞を受賞。卒業と同時にヤマハに専属デモンストレーターとして日本全国で演奏活動を展開、同時に各種のコンサートに出演するという多忙な日々が続いている。

「リセットするために時々ニューヨークに行きます。初めてニューヨークに行ったとき、ここだ!と思った。何日あっても足りないですが、帰りの飛行機では無性に弾きたくなりますね。聴いてくれる人がいればどこででも弾いていたい。だから音楽を邪魔するものはいらないのです」ときっぱり。音楽への想い、演奏することの想いは子どもの時から変わらない。「音楽に始まり音楽に終わる人生になるんだろうな、と思っています」