記事一覧
-
No.11
特別編「宇都宮平和祈念館をつくる会」『宇都宮空襲展』第30回を迎えて
7月6日から13日にかけて、栃木県宇都宮市のオリオンACぷらざで「第30回宇都宮空襲展」が開催された。今年は...
-
No.10
日本は敗戦で何が変わったのか(その2)
日本政府は、昭和20年9月2日に横須賀港に停泊した戦艦ミズリー号艦上で連合国らに降伏文書に調印した。そして、...
-
No.9
日本は敗戦で何が変わったのか(その1)
昭和20年8月15日に終戦の詔書がラジオで発表され、日本は敗戦を受け入れた。そして、同年9月2日に戦艦ミズー...
-
No.8
敗戦の混乱の中を生きて
この戦争で戦闘員、空襲による被災者、外地での死亡者は全部で200万人以上と言われている。全国の主要な都市に...
-
No.7
宇都宮大空襲
私が母親と1946年(昭和21年)夏に満州から引き揚げ、引揚列車で宇都宮に着いたとき、市内は焼け跡と瓦礫が残っ...
-
No.6
さらば、希望と悲惨の大地満州 日本への帰還
1945年(昭和20年)8月15日、日本が敗戦。満州にいた日本人は奥地から日本に引き上げるために、葫蘆島(ころと...
-
No.5
中国残留孤児たちの孤独と絶望
1945年(昭和20年)の暮れから1946年の初めには、日本へ向かう帰還船が出るとの事で多くの日本人が、満州の奥地...
-
No.4
極寒の中の60万人の捕虜の強制労働と父親の死
私の父親は、1945年(昭和20年)8月6日にソ連の侵攻により現地召集になり一発の銃も撃たず、ソ連軍の捕虜にな...
-
No.3
親子3人の過酷な難民生活
1945年(昭和20年)の8月、私たちは満州里(まんちゅりー)でソ連軍に包囲されて、父親は現地召集され、捕虜に...
-
No.2
敗戦6日前のソ連軍の参戦により死が日常になった
1945年(昭和20年)8月9日早朝に、多数の飛行機の爆音で目を覚ました。ソ連軍が満州に侵攻してきた。ヤルタ会...
-
No.1
満州の平原からの引き揚げ
私は、1942年(昭和17年)3月に、旧満州国の山海関(しゃんはいかん)で生まれたと戸籍に記載されている。山海...