手仕事会に若い世代も入ってほしい
栃木県の手仕事工芸士たちの会「下野手仕事会」が今年で40周年を迎える。4月から新会長として7代目会長に就任した小砂焼(現那珂川町)の陶芸家藤田眞一さんに小砂焼のルーツと下野手仕事会の経緯を伺った。
「手仕事会は、名誉顧問である尾島利雄(当時、栃木県立郷土資料館館長・民俗学者)先生がふるさと栃木県の手仕事の保存の重要性を説かれたのがはじまりです。武者絵の故大畑力三氏(初代会長)、烏山和紙の故福田長太郎氏、間々田ひもの故渡辺浅市氏たちに呼びかけられて創設されました」
藤田さん自身は下野手仕事会10周年の頃に入会した。約30年前、29歳のときであった。
「父は私が26歳のときに亡くなりましたので、すでに家業を継いでいました。手仕事会は世代交代の時期でもあったようで、初代の方々とはほとんど面識はなかったのですが、50人を超える会員数でした。それぞれの会員が伝統を継承したい、次に繋げたいと思っていました」
その志は今も変わらず会員の思いは同じであるという。20歳代で手仕事会に入会した経験から「このような団体が私のことを見てくれたというのは嬉しかったですね。若い人たちにも是非入ってほしい」と話す。
食事処「陶里庵」で、藤田下野手仕事会会長
下野手仕事会40周年記念パンフレット
大正時代の機械を今も
藤田さんは小砂焼藤田製陶所の6代目後継者である。小砂焼は1830年(天保元年)の水戸藩主徳川斉昭(常陸水戸藩の第9代藩主。第15代将軍・徳川慶喜の実父)の殖産興業政策で小砂に陶土が発見されたことに由来する。
「私の先祖は富山県から来て烏山(現那須烏山市)で焼き物をやっていた職人だったんです。水戸藩のときに、土を水戸に運んでいましたが、小砂の庄屋たちが水戸に土を運ぶのではなくて、この地で陶器を作ろうと技術者をこの地に呼び寄せました。技術のあるものが残ったということですが、そのひとりが藤田製陶所の創立者です」
当初、製陶所は10軒にも満たなかった。流通が悪かったことが大きな要因で、近隣の益子町と栄えかたが異なったという。
「このあたりは水戸藩のはずれ、まあ、栃木のはずれでもありますが、大正末期にはレンガの会社(「関東化粧煉瓦株式会社」会社ロゴ-KK)が工場を作りレンガ作っていました。曽祖父のころですね。10年くらい続いたのですが、やはり流通の問題で長く続かなかったようです。ただ、小砂で作られたレンガは、歴史遺産として今日まで伝えられています。明治時代、東京駅周辺や銀座の舗道の敷石に使われ、関東大震災で大きな被害を受けた銀座の街の補修作業の際、不要になったレンガを譲り受けて舗道を造ったところが日本有数の商店街である『戸越銀座』で、最初に『銀座』の名を冠した商店街と言われています」
レンガ工場のレンガを作る機械で、粘土も作ることができた。レンガ工場が閉鎖され、その機械を払い下げてもらい、小砂の焼き物はその分効率的に製作することができたという。「粘土作りに大正時代の機械を今も使っています」
藤田製陶所の奥にすすむと、大正時代の文化遺産のごとき重々しいレンガ製造機が鎮座している。
大正時代にレンガが敷きつめられた藤田製陶所
当持の会社のロゴ「KK」がきざまれたレンガ
大正時代のレンガ作りの機械
志を引き継ぎ、発展させていく
大正、昭和から平成へと移る中で急激に時代が変わっていった。日本の生活様式の変化はめざましく、その流れは留まることはなかった。
「手仕事は取り残されてしまうものもあります。今は34人の会員で業種としては30種くらいありますが、栃木県内全部の職種と県内全地域の方々に入ってほしいと願っています。個人ではうまくいかないことも、会だからできることがあると思います。県との対話も十分にしていき、情報提供や支援をお願いしたいと思っています。『もう少し流通の中に入れば』とも言われますが、機械化の中の勝負ではなくて、一つひとつ丁寧に心をこめて作ってきました。今まで大切にしていたものを無くさないようにと思っています。それが手仕事の良さですし、何よりもみんな手仕事が好きだから続いてきているんです」
創設者として手仕事会に貢献してきた尾島氏は「ひとつひとつ自分で作り、手仕事を守っていく。その時代にあったものを作っていく。それが続いていく。古いものだけだと使わなくなってしまう。使わないとなると失われてしまう」と、伝統文化の保持と継承を説いていたという。それが下野手仕事会の地域での役割であり使命ともいえる。
「簡単につぶせないです」と、7代目手仕事会藤田眞一会長は、40年前の創設から流れる志を引き継いで、これからの40年を展望し、発展させていく道を模索している。
陶芸教室で若い人たちを指導する藤田さん
右から冨岡和子さん、藤田眞一さん、長山千鶴子さん、藤田峰子夫人
藤田眞一さん
小砂焼