資金難、フィルム紛失…苦難乗り越えた青年たちの熱意
足尾鉱毒事件を追った記録映画『鉱毒悲歌』は、資金難による撮影中断やフィルムの紛失という2度の大きな苦難を乗り越え、約40年の歳月を要して完成した。栃木県矢板市の詩人、石下典子さんは、その制作秘話を掘り起こしたノンフィクション『二度あきらめなかった映画――ドキュメンタリー『鉱毒悲歌』制作ヒストリー』(アートセンターサカモト)を今春刊行。関係者への取材を振り返り、「鉱毒事件を追って貴重な映像を残した人々の熱意と行動力を伝えていきたい」と話している。
著者 石下典子さん
第三者の視点で取材
「かつての青年たちを尊敬しながら書いていました。この人たちは現場の中でずっと生き続けていると一途に思って。書いている間はすごく楽しかったですよ」
長く詩人として活躍してきた石下さん。映画『鉱毒悲歌』の制作とは無縁だったが、第三者の視点で取材し、誰も書かなかった映画制作の記録を書き上げた。
きっかけは、2019年、仕事上のつきあいのあった小川修二さんの葬儀だった。そこで、小川さんも関わっていた続編『鉱毒悲歌そして今』の上映会のことを知った。出版社社長だった小川さんは『鉱毒悲歌』に初期から関わったメンバーだったが、石下さんは、そのことや続編の制作について聞いたことはなかった。
「映画を見たとき、すごいものができあがったと思った。映像として貴重な資料。ただ、作品はDVDとして残るが、制作過程の記録はない。制作者の談話や苦労話などを知りたくて探したけれども、記録されているものがない。書いておけば、いつか、こういう人たちがいたと知ってもらえる。(書いた動機は)そのためだけでした」
50年近く前、『鉱毒悲歌』制作の主要メンバーは当時20~30代の若者。作家の立松和平さんも大きな役割を果たしている。
彼らはどんな思いを持ち、どのように行動したのか。
当事者にとっては身内話でも、部外者から見れば、驚きや感動が詰まっている。
石下さんは、制作委員会代表だった元参院議員・谷博之さんをはじめ関係者への取材を重ねた。既に亡くなった人もおり、全体像はなかなか見えてこない。それぞれの証言をつなげ、資料を集め、ようやく点と点がつながる。だが、欠けている部分や証言の食い違いもある。新型コロナウイルス感染が広がる中、対面ではなく、電話取材になることも多かった。
「谷さんには取材した後も、何回か細かい点を問い直した。そのたびに直筆の手紙で返答をいただき、本当に助けられた。こちらが中途半端ではなく、真剣勝負で取り組んでいることが伝わったのだと思う。ノンフィクションは取材相手と信頼関係を築けるかが重要だと感じた」
『二度あきらめなかった映画――ドキュメンタリー『鉱毒悲歌』制作ヒストリー』
佐呂間移住者への思い
鉱毒被害で廃村になった谷中村の悲劇を象徴するのが北海道サロマッペ原野に移住した旧村民の苦難だ。現在の佐呂間町内に栃木の地名が残る。
石下さんは「コロナ禍でなければ、現地で取材したかった」と力を込める。「栃木県内でも水も出ない悪条件の土地に移住した人もいたけど、佐呂間はほかの移住先とは全く条件が違った。良い所だと聞かされていた土地は、人の住まないとんでもない荒地。棄民といって間違いない」
国の政策、行政の都合で切り捨てられた人々。石下さんの指摘は、佐呂間移住者の生の声を記録した「鉱毒悲歌」と重なる。
1911年4月、第1次入植者がサロマッペ原野の仮小屋に到着するまでに小山駅出発から15日を要した。谷中村を追われた450戸、約2700人のうち66戸240人が北海道に渡った。春の装いで出発した一行は、高齢者と幼児を馬ぞりに乗せ、膝まで埋まる雪の中を歩いた。
南向きで肥沃な大地と聞かされていたが、オホーツク海からの風が吹き付け、山々に囲まれた北向きの斜面で平地も少なく、農業に適さない。大きな木を何本も切り倒さなければ、土地は使えない。第2次入植者を含めて脱落者が相次いだ。
「鉱毒悲歌」は2度にわたって佐呂間町の栃木集落に撮影隊を送っている。遠方の地の取材をことさら重要視したのは、明治維新後、日本の産業が急速に発展し、国力をつける裏で、村そのものが犠牲となった旧谷中村に対する視線。撮影した若者たちの行動力の根源にあったのは正義感だと、石下さんは感じている。
「今の若い人は『正義』なんて言葉にしたら、ハズイ(恥ずかしい)というくらいの感じだろうが、人の心の中心にあるのは、やっぱりそれ(正義感)だから。ただ、鉱毒事件はかじりつくにはあまりにも大きな問題。熱を持ってなければ、動かなかった。精鋭ぞろいだったと思う。誰が磁石の役だったのか分からないが、志ある人が集まるものだなと」
映画『鉱毒悲歌』
「鉱毒に半減期はない」
足尾鉱毒事件は決して過去の問題ではない。
出版後、石下さんのもとに東日本大震災の原発事故を追った報道機関の関係者から電話があった。知人の伝手で本を送っていた。
「核物質には半減期があるが、鉱毒には半減期はありません。永久に薄まるものではありません。栃木県のカラミの山はどうなっていますか」
放射能汚染と鉱毒被害は全く違う仕組みだが、自然環境に影響を及ぼし、動植物、人体への被害が懸念される重大な問題である点は共通する。
カラミは銅の精錬過程で発生する廃棄物。足尾には堆積場が数か所あり、大量の廃棄物が山積みになっている。大きな地震で崩れて渡良瀬川に流入する可能性もあるし、雨水で流れて地下水に浸透する心配も指摘されている。東日本大震災(2011年)のときには決壊した堆積場があり、渡良瀬川下流で基準値以上の鉛が検出されたことが報道された。
足尾銅山の閉山から半世紀近く経っても、危険性が全て除去されたわけではないのだ。「今、大河ドラマ『青天を衝け』をやっていて、あのドラマを見ながらも、殖産興業の裏で癒着もあり、私腹を肥やす政治家もいたのだろうなと思う。政府のお膳立てで古河市兵衛が銅山を経営する中、当時は公害だと言われても考える余裕もなかっただろうし、古河だけを責めるわけではないけれど、鉱毒被害の責任はあるし、現在まで残る問題も誰かが何とかしなければならない。例えば、カラミをあのまま放置するのだろうか、何とかしないのかと疑問もわいてくる」
一方で環境問題は自分たちの問題でもある。
郷土の歴史として足尾鉱毒事件を次世代に伝えていくことも必要だし、誰もが環境の改善に行動を起こすことができる。鉱毒の煙害で木々が枯れた足尾の山では、立松さんが提唱した植樹活動が今も続けられている。
「SDGs(持続可能な開発目標)という言葉に置き換えられたけど、分かりやすい言葉で、子供でも実行できる指針を立ててくれたらいいのにと思う。栃木県には『もったいない』を意味する『あったらもん』という言葉がある。明治生まれの人がよく言っていた。何でも大事にする心。環境問題は専門家が考えることと思っていた。だけど、そうじゃない。一人の生活者が環境を汚さない生活をすることも大事。100年後、50年後の地球はどうなっているか分からないが、次の公害を生まないような意識を持つことはできる。私はそう考えている一人です」
石下さんは、子育てや介護に追われていた30代から詩作に励んできた。初めに師事した詩人・大滝清雄さんには「自分の内面をさらけ出す覚悟がないと人の心は打つ詩はできない」と教えられた。
上っ面を飾らず、自分自身の言葉をぶつけてきた姿勢は、今回、初めて挑んだノンフィクションの著作でも発揮された。
石下さんは8月から下野新聞「しもつけ文芸」の現代詩選者を務めている。前任の山本十四尾さんから、何としても信頼できる人に引き継いでもらいたいと依頼された。
自身の次の詩集の準備も始まっている。今後も、どんな作品を生み出していくか。ますます活躍が期待される。
映画続編『鉱毒悲歌そして今』
映画『鉱毒悲歌』の経緯
1973年 鉱毒事件で強制廃村(1906年)となった旧谷中村を題材にした記録映画『ドキュメント・谷中村』
の制作構想が持ち上がる。旧村民の一部が移住した北海道佐呂間町を撮影。この年、足尾銅山閉山。
1974年 『ドキュメント・谷中村』本格的に撮影開始。
1979年 田中正造の秘書・島田宗三氏インタビュー(数ヵ月後88歳で死去)2度目の佐呂間町撮影。
資金難で撮影中断。
1983年 『ドキュメント・谷中村』を『鉱毒悲歌』に改題(187分)。各地で数回上映。
その後、フィルムは所在不明に。
1991年 谷中村跡地などに渡良瀬遊水地完成
2013年ごろ 『鉱毒悲歌』フィルム再発見。
2014年 『鉱毒悲歌』完成版(103分)を制作。再公開。
2015年 DVD制作。
2018年 続編の撮影開始。
2019年 続編『鉱毒悲歌そして今』(68分)の上映。DVD制作
書籍情報
・書籍名:二度あきらめなかった映画――ドキュメンタリー『鉱毒悲歌』制作ヒストリー
・石下 典子 著
・発行所:アートセンターサカモト
・〒320-0012 栃木県宇都宮市山本1-7-17
・TEL:028-621-7006 Fax:028-621-7083
・価格:本体1,100円(税込み)
・ISBN 978-4-901165-23-5
石下 典子(いしおろし・のりこ)
日本現代詩人会・(社)日本詩人クラブ・日本文藝家協会 各会員
日本詩歌文学館振興会評議員/詩誌「彬彬」・個人詩誌「粼」発行人
既刊詩集 1991年『花の裸身』(栃木県現代詩人会新人賞)/2008年『神の指紋』/2015年『うつつみ』(日本詩人クラブ新人賞)