アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「BIOS電子版」No.54

「文学と美術のライブラリー游文舎」偕子・風間=オベール、霜田文子2人展(2023年5月13~21日)
ギャラリートーク「パリで絵を描くということ」

偕子・風間=オベール(トモコ・カザマ=オベール)
聞き手/柴野毅実、霜田文子


左から霜田、柴野、偕子


トモコ 今回の展示の中で一番大きい作品を紹介します。約30年前に私はアトリエで絵を描いている時に白昼夢を見たのです。その中に私が吸い込まれるような気がしたのです。ハッと我にかえって「どうしたんだろう、何があったのだろう?」と考えたら、その何秒間に地球の始まりから最後までを見せられたのです。それがこの作品なんです。タイトルにあるように「突然、地球の歴史を見せられた」のです。残念ながら虐殺の歴史だったんですね。ずっと血を流し、流されて、現在も。最後は地球を脱出しています。このように私たちの星は血の歴史で文明を築いていますが、古代文字、楔形文字やフェニキア文字を描き入れて、古代から「人間の理性がありますよ」という願いを込めて創った作品です。

霜田 私の作品「風の卵」ですが、ずーっと「風の卵」というタイトルで描いていました。いろんな卵、自分の頭にも似ている。頭の代わりです。私の頭に反応したものを描いていますので、みなさん勝手に見ていただければと思います。卵から地球とか宇宙くらいまで想像してもらえたら、極大から極小まで想像してくれたらいいなという思いで描きました。以上です。


偕子と作品

霜田と作品


柴野 トモコさんは48年前にパリに渡られて、そこで芸術活動をされていますが、そのへんの事情をちょっとお聞きしたいと思います。

トモコ 東京の高円寺というところに住んでいて、地域の画廊で初めての個展をしました。その時絵が売れたんですね。だから、画家として生きることが、すごく簡単なことだと思ってしまったんです。そして、もっと広いところに行きたいと思うようになりました。「パリがある、ヨーロッパがある、アメリカがある」と思い、ある意味では間違ってパリに来てしまったのです。

約半世紀前になりますが、その頃の私たちの年代は、「ニューヨークはモダンだ、現代アートだ」と。日本ではニューヨークが世界のアートをリードしているように思われていました。ひょんなことから行ってしまったパリですが、すぐに、そのすごさを肌で感じました。なぜかは分からないのですが、「この街は私を裏切らない」と。私は裏切っているのですが……。さらに住み始めて分かってきたのですが、世界中からパリを目指して来る人たちが大勢います。画家、音楽家、デザイナー、ダンサー、シェフなど、その他の文化、芸術の全部がパリに集中して押し寄せるのです。そこで初めて「私は間違った、本当に難しいところに来てしまった」と気づいたのです。でも、どうせ一生は一回だから、難しいところのほうがいいんじゃないかと思って、今日まで開き直って過ごしてきました。

しかし一番重要なのは、パリにいるだけで満足するという怖さを知りました。創造しないと、いるだけでは何の意味もないのです。私は自分に鞭打って、創っては発表、創っては発表しました。当時、私はお金もない、日本人もフランス人も知り合いはいなかったのですが、私と同じように、ヨーロッパ中、世界中から同じ環境の人たちとパリで出会ったのです。そしたら「トモコの作品は面白い、私たちと一緒にやらない?私たちの国にぜひ来て」と友だちができました。みんなパリで出会った友だちです。最初はゼロから出発して、たくさんの知り合いができて、さまざまな場所、国に招待されました。次も呼ばれるように、オリジナルの作品を一生懸命創っていましたよ

霜田 パリに留学などで数年間いるというのではなくて、そのまま帰って来なかったわけですよね。永住しようと思ったのは?

トモコ アートを創り出すためには300年は必要と思ったんです。ところが実際は人間、生きて80年とか90年ぐらいでしょう。だから、3世紀あればできるのではないかと思って。永住なんていうのは大したことではなかった。そういうことです。

柴野 先ほど間違ってパリに行ったと言われましたが、私は観光客としてパリに行くと、いいところだし、建物なども日本と違って、300年、200年前の建物が残っていますよね。日本はせいぜい100年残っているといい方で、歴史がその通りにちゃんと生きているという感じがして。観光で訪れるには非常にいいと思うのですが、そこで生活することのその意味というか、苦労というか、それらも伺いたいですね。

トモコ フランスも地震はあります。アルザス地方の東フランス、あるいはニースの辺りの南イタリアとの国境など。そこで震度1ぐらいが1年に1回か2回あるかないかで、ゼロに等しいです。ヨーロッパ大陸というのはロシアの先まで含めて海底が持ち上がってできた国ですから、カルシウムが沢山あって岩や石があって、何ていうんですか、パリの街は全部近くで石を切り出して造っているんです。すぐそばにあるもので造られているんです。地震がない、石がそばにある。ノートルダムも、みんなその辺から掘り出してきた。私の住んでいるアパルトマンも、その辺りから掘ってきたもので造っていますので、みんな同じ色です。

フランス人の思想は永遠に残すということで、日本人のように「水に流す」とかはないんです。水に流れないようにする。ですから、頭の中も永久に残そうという感覚があるんです。その場だけではないということですから。「頑固でケチで意地悪で」とフンランス人はよく言われますが、フランスは競争社会、精神的な競争が厳しいんだと思います。つまり肉体も元気で精神も元気でないと難しい国ですね。



柴野 先ほどパリでは芸術家が尊敬されると伺いましたが、自分のことに関連させてお話しいただけますか。

トモコ その通りです。パリでは芸術家が尊敬されます。なぜなら、自分はできないけれど、彼が、彼女が創っている。実はみんなアートを創りたいんです。ですからいろんな仕事している人たちが「私も描いています」と、よく言ってきます。自分を表現するのにアートが一番身近なんですね。ですから「それができない、続けられない、これでおしまいになってしまうかもしれない。しかしトモコが描いている、トモコは続けているから。トモコの今度の作品はなんだろうか」というので、アートに対してサポートしてくれるんですね。「尊敬」というのは、私のことだけではなくて、私の後ろにオランダやベルギー、イタリア、ギリシャ、アラブ諸国、そこまで全部繋がっているんです。後ろにみんないる。繋がっている。その責任がある。実はそれをパリに行って初めて感じました。私はたったこれだけですが、私の後ろにみんながいて、「トモコの番だよ」って言ってくれるので責任がある。アーティストが尊敬されるということと、その立場の責任があるということで、現在まで続けてきました。

柴野 日本の特に田舎だと、抽象画などを描いていると、「訳の分からない絵を描いて、こいつ頭おかしいんじゃないか」というふうに言われます。そういうことはないんですか?

トモコ ないです。なぜないか。抽象、具象の区別ってないんです。つまり抽象の中にも具象があるんです。具象の中にも抽象があるんです。というのは心の中というか、頭の精神的なものを描くから形がチューリップになったり、あるいはピンクの雲になったり、全部同じなんですよ。「おかしい」という人たちが狭い視野で見ているということで、そのような狭い視野ですから、全部は見られません。パリでは全部見てしまう人たちがいます。私もさらけ出しているから、たぶん分かるのだと思いますが、見る目がすごいんです。フランスのファッションも見るし、見られる。絵画も音楽もすべて「見る、見られる」。ということは、上へ上へと行くのです。「出す」ことが大事ですから。

霜田 トモコさんの大きい作品は先に送ってきて、後からトランクで小さい作品が来ました。それを開けた時、「わぁ、トモコさん、自由だなー」って思いました。何を描くとか、何を言いたいというのはなくても、その時のあの嬉しさとか苦しさとか、そういうものが手法も関係なく表現されていて。それがすごいなって。自由そのものを描いているみたいな感じがしました。

トモコ 霜田さんが一番大事な言葉「自由」と言いました。これが一番大事です。それがないと創造はできません。じゃあ「自由て何?」ってなりますが、「解放」、自分自身を自由にする、解放するということ。じゃあ、どういうことかというと、「周りの人を見ない、周りの人の意見を聞かない。自分が一番大事」。それをヨーロッパ人は全員持っています。 日本語で「出る杭は打たれる」ってありますね。ヨーロッパは全員出ようとしている。しかも全員が両手に金槌を持って、周りが出るのを叩きながら出ようとしている。それぐらいのエネルギーですよ。ですから、遠慮という意味(の言葉)もない。謙遜という意味もない。それは全部、ネガティブな否定的なマイナスの言葉ですから。日本のような「つまらないものですが」っていう言葉はない。つまらないものであっても「これは最高よ」って渡すのね。だから、だまされることがいっぱいありました。誇大妄想みたいな言葉でみんな寄って来ますから。でも、それって必要なんです。実現させればいいわけですから。

霜田 今のことにも関わりますが、私たちが2019年の暮れに行って帰国した直後から、コロナ禍になりました。その後の作品を順番に並べましたが、その辺りのことを伺いたいのですが?

トモコ コロナ騒ぎで(フランスでは)ロックダウンが3回ありました。「(外に)出てはいけない」というのは自由を求めて出ている人たちは、ものすごく大変でした。 私は牢獄に入っているような感じで息ができないような。しかも、いろんな国で個展がありましたが、それが全部パチンと中止されました。あの国でもドアがパチンと降りて、日本も3箇所、全部降りて(中止になって)。私は鬱状態になって、もう生きている意味がないと。それでも「いつかは自由になるだろう」と思ったのですが、「いつ」かは分からないわけですから。そのときの作品は、少し持ってきましたが、薄暗いような感じですね。

それは自宅にいて、アトリエに行けないから色がないんです。とりあえず残っている物でやってみようと思って創って、何か混ざっています。いろいろ発色ができなくて、ちょっとできたのが油性クレパスを使ったり、それから靴墨使ったり、とにかく色が出るものを家の中で探して。「ヤダ、ない、ヤダ、ない、いつまで牢獄にいるんだろう」という感じで、あの作品ができたのです。でも、それはその時の私の状態ですから、私にとって貴重です。その後、自由になったらパーッと色が出て、ピンク系統は今まで使ったことがありませんが、使い出したんですよ。もうその時、嬉しかったんですね。雲の風景ですが、嬉しくて、嬉しくてできた作品。自由は最後まで自分の中の自由を大事にするということです。


偕子の作品


柴野 トモコさんのことだけじゃなくて、ヨーロッパはいろいろなアーティストがいると 思いますが、今回のコロナ禍で本当にいろいろな経験をされたと思います。芸術に与えた影響はどういうものがありますか?

トモコ 芸術自体に与えた影響とはないと思います。というのは、日本の時間とヨーロッパ人の時間の長さが違います。平時の場合は何十年も待てない、何百年も待てない、でも寿命に限度があるから早くやりたいということですが、「いつかは終わる、いつかは終わる」でやっているでしょ。だから、アート自体に響かないのですが、展示会に響いて、パリでも作家も来られない、お客さんも来られないで、随分画廊も閉鎖していました。ですから作家はその中で終わるのを待って作品づくりをしているのだから、何十年何百年という単位でやっていると思うんです。

柴野 経済的に影響があったんですね。

トモコ もちろんありました。キャンバスを張る木、木枠といいますが、それはだいたいウクライナとか、ベラルーシとか、リトアニアとか、東ヨーロッパからきます。一切こなくなったときは、あら嫌だ、平気でそのへんに置いたり、友達にあげるって言ったりしていたのですが、パタッと買えなくなった時は怖かった。

柴野 それは戦争が始まってからですか?

トモコ そうです。絵の具の買いダメとか木枠もこれは取っておこうと、どんなものでも取っておこうと。そういうことがありました。戦争は大陸ですから身近ですよ。

柴野 ウクライナの戦争が始まった時は、かなりショックがあったと思いますが、特にトモコさんは展覧会を東欧とかでもやられていたわけですね。そのへんの影響はいかがでしたか。

トモコ 全部ストップして、一切の連絡はありません。そしてリトアニアとか、その北の方がありますが、ロシアに挟まれているその人たちの所に行っていますが、そのときにウクライナの人やベラルーシの人やロシアの人たちみんな一緒になって作品を創って、みんな何言でしゃべっても通じ合ったものでした。そういう人たちは全部シャットアウトになって、連絡は途絶えました。

私、今回の展示会の案内をいろんな国にメールで出して游文舎を宣伝しました。ヨーロッパ、アメリカ、日本など全部に游文舎のことを出しています。私と游文舎の霜田文子さんの名前を出しているので返事が来た人たちは、ドイツ人、オーストリア人、ポーランド人の返事が来て……、それだけだった。

現在、私は展示会に作品だけを出品しているのが何カ所かあります。体は一つだけなので、まず大事なところを優先して。それで東京の個展会場を半分であとは任せて、こっち来ました。 他にモルドバ共和国のキシナウの国立美術館で2ヶ月間(5、6月)展示をしています。それは招待作家としてインターナショナルなビエンナーレがあってですね。そこに出していますが、すぐ隣がウクライナです。あと1箇所は、ブルガリア・ソフィアで3枚、ニューヨークシティというので、現在展示しているのが1年続いています。

霜田この絵の説明をお願いできますか?



トモコ 「窓辺からパリを見る」という題ですけど、この古い新聞は1941年の新聞です。それは「パリマッチ」という雑誌を材料として創りました。ヨーロッパ中が戦争状態でドイツにガンガンやられていた時で、男性たち、夫や兄弟、息子たちは戦場に行っていて、女性が残っていましたが、そのときにクリームの宣伝とかシャンプーの宣伝、石鹼の宣伝とか、男性たちが戦地で戦っているときに「奥様はきれいに磨いておきましょう」っていう雑誌の宣伝なんです。ですから、日本の戦時中と全然違うのね。日本ではパーマもダメとかね。そうじゃなくて、フランス語を分かる人は見れば分かりますけど、「美しく磨いておきましょう」とか「清潔にしておきましょう」って。宣伝ですから、大したものじゃないんですが、肌を保護してもっと美しくと。それを私は面白いと思って、利用したものです。全然違うんです。女優たちのこととか、政治のことも、いろいろなことが載っていて、「パリマッチ」って今でも有名ですが、これを使おうと思ってね。それを長くアトリエの隅に置いておいた。いつだったか、ハッとヒントを得たんですよ。だから材料は、そのとき感じたものをいつか使えると思いました。私もこれくらいの雑誌は読めますので。

霜田 作品解説も含めてですけど、トモコさんの見ていると、プリミティブアートみたいなのがすごくあるんです。それはトモコさんはナイジェリアにおられたことがあるっていうことと関係あるんですね。

トモコ はい。40数年前に、夫の仕事の関係で北ナイジェリアに4年半ほど、インドネシアのジャカルタに2年半ほど滞在していました。ナイジェリアにいたときに内戦があったんです。選挙があって戦争になります。勝った方が大統領になるっていうことです。そのときにあちらこちらで火の手が上がる。あれ怖いですよ。未だに殺戮が続いているということです。

私たちは会社のフランス人地域のようなところで、囲いの中では家と学校もあって、門番がいて、というような所に住んでいましたが、首都から離れていたので、内戦が勃発しても救出されなかったのです。初めて命の危険にさらされました。とにかくパスポートと書類を持って、車のガソリンを満タンにして逃げなければと。しかし「さて、どこに逃げる?」と夫と思案しましたが、北のニジェールはフランスの植民地だったのでその辺りに逃げるしかなかった。300キロメートルはあります。その道沿いには蛮刀を持った部族がズラーッと並んでいた。蛮刀がない人は石、石をこうやって持ちあげて並んでいる。そこを通らなければならない。「石でやられたら嫌だなあ、蛮刀がバサーッときたら嫌だな、いっそピストルでバチンってやられた方が楽だろうか」などと思いながら……。その場で殺した人はその場で焼くのでその匂いがいつまでも鼻にしみついていた。本当に怖い目に遭ったんです。部族同士の戦いですが、いつ外国人に向かってくるか分からないんです。私たちは何の武器もない、私たちが武器を持っていてもやられたらおしまいですが。それがようやくおさまったらフランス大使館から役人が来て、「みなさん、どうしていましたか」って聞くから、みんなで固まって、夜を過ごした話をすると、役人は「みんなで一カ所に固まらないでください。バラバラにいてください。全員殺られたら情報がなくなります」。誰かが逃げれば情報が入るから、全部やられたらゼロだからというわけです。さすがのフランス人も口をバカーッと開けてあきれました。

内戦を体験するとその前の出来事は大したことなかったんですよ。サソリがウジャウジャいるとか、ヘビがドサッといるとか、サハラから変な風がきて奇病になるとか、寝ているとき毒虫が這うとそこは全部腐るとか、アフリカですからいろんなことはあるんですが、内戦から比べたら、どうってことがないのです。大きなカメレオンなどノソノソしているから、すぐ捕まえられるしね。色が変わるかどうか、試したりしたけどね。あんまり変わらなかった。ちょっと暗くなったり、ちょっと明るくなったりぐらいで。グワーッと変なうめき声を出していましたが、可愛いですよ。

そういうことがあって、アフリカ以降の絵にそういう物語が入っているんじゃないかって言われたんです。私の場合は特に南米の人から言われたんです。プリミティブアートの人たちにね。だから何かの影響は受けていると思うんです。だから絵だけを見ると日本人じゃないと思われる。よく勘違いされるのは若い男性が描いたと。男性に見られたり、あと南米人に思われたり。「何人ですか?」とよく質問されますね。


ナイジェリア・ゴワルゾ村
(1979年頃・トモコ撮影)

ジャカルタの住宅の一室をアトリエとして創作を続けていたトモコ (1982年頃・トモコの夫アンリー・オベール撮影)


柴野 そうですね、あの一番新しい大きい作品。あれなんか見ていると、やっぱり南米の感じがありますよね。その土俗的な感性を受けていますよね。

トモコ そういう流れの中にいると思っていますが、全く意識してないです。他の人からも言われるんです。ということは、パリに行ったから、そういうことでしょうかね。私がアフリカを知っている、インドネシアを知っている、ということもあると思うんですよ。

霜田 パリのカルチェラタンの辺りのギャラリーを歩き回ると、結構そのプリミティブアートみたいな感じの雰囲気の活動が多いんですよね。アボリジニーの人の扱っている場とか、あれだけ洗練されているから、逆にそういうものに何か自分たちの活路を求めている人もいるのかな。意識的にね。トモコさんの場合は、それは意識的ではないんだけど、意識している部分もあるかな?

トモコ フランスは、アメリカとか南米とか小さな島国、そこら中に植民地があったでしょ。ですから身近なんですね。そういうこともあると思うんです。ケ・ブランリ美術館ってあるでしょ。あれは植民地からみんな盗んだ物ですね。シラクさんのとき、あの人は日本が大好きで大好きで、その時に(シラク元大統領がパリ市長時代)ああいうものができたんですよね。ですから今のチャールズ国王、あの人の王冠も全部盗んできた物で作ったんですけどね。そういうことなんですね。

柴野 フランスで展覧会をやりたい人。はい、はい、はい。(数人が手をあげる)

トモコ 東京で個展をしていた時に、パリで展示したいという作家が毎日押し寄せてきた。それだけパリで展示したいアーティストがたくさんいるのね。でも、日本人だけじゃないの。私がニューヨークに行ったときも、5番街ニューヨークに素晴らしい箱の画廊があったんです。それで中を見たらドイツ人の作家が作品を飾っていた。画廊のオーナーの人が出てきて「明日、オープニングがあるから、あなたもどうぞ来てください」って言われたので、次の日行ったんですよ。最初に、オーナーがアーティストのドイツ人を紹介して、その後に、私を紹介するの。「トモコはパリから来たアーティストで、日本人で……」とか、関係ないのに。そのギャラリーの箔をつけるために、「パリ、日本人、アーティスト」。この3つが強かった。そのドイツ人は息子と来ていて隅にいる。みんなが私のところにばーっと来て「私、こういう者です」って名刺と「こういうのを作っています」って、写真を見せてね。私、困ってしまって、そこの2人が主役なのにと思ったのですが、「ああ、ここはニューヨーク。ニューヨークスタイルでいいんだ」って、ニコニコして私も自分の名刺をあげたりしました。そういうことがあったのです。ニューヨーク5番街からもパリを見ているってことなんです。それにはびっくりしました。それはドイツに行っても、どこの国に行っても同じ。私はだいたい、ヨーロッパ中で何回もやりましたけれども、パリの「パ」だけでみな何だか分かる。だからパリで何かをしたいと思うのは日本人だけじゃないんです。

柴野 ちょっと一昔前までは、パリは、ほら世界の中心になっているじゃないですか。いまだにですね。

トモコ でも、大事なのはオリジナリティ。それさえあれば、どこでも大丈夫。やっぱり、それが一番求められる、ということです。

霜田  私は2019年12月に行ったわけですけど、その年の4月にノートルダム大聖堂の火災がありましたでしょう。私としては観光的にしか興味がない、その程度だったんですけど、パリの人にとって、すごいことなんですね。ノートルダムというのは。


火災前の2019年1月に撮影したノートダム大聖堂内
(火災は同年4月15日に発生)

新潟・フランス協会代表理事本間彊氏が来廊


トモコ 私はフランスのプレスパス(記者証/トモコはフランス国籍)を持っていますので、日本の電子版の新聞にもインタビュー記事を送っていますが、火災の次の日、現場に行きました。もちろん近くには寄れません。ノートルダムの裏側の2つ目の橋までしか行けなかったんですね。そこでびっくりしたのは、ホースが散乱していました。それを見て現実だったのか、と。すごい臭い。そこに世界中からジャーナリストが来ていて、我先にと場所取りもしていた。パリジャンたちがそれを見ているわけです。私が感じたのは、偉大な人が亡くなった時の葬式みたいだった。つまりフランス自体が焼け落ちたような、これでフランスがなくなるような、それぐらいショックで、みんなシーンとしていました。たくさんの人がいて、私はその様子を見て自分の心に留めておこうと思いました。今こうして話してるだけでドキドキドキドキしちゃうんですけど。次の日に再建するために寄付を募ったら、1週間で再建費用の何倍もの金額です。ノートルダムがあと1個できるくらいの金額が世界中から集まりました。世界のノートルダムですね。マクロンの名前が残りますよ。オリンピックに合わせて12月中旬に完成予定ですが、フランスのやり方ですので、まだまだできていない。この前、マクロンがヘルメット被って、中の様子を見に行きました。それ早く開放してくれないかなと思っていますが、フランスの大統領は、アートに関するものを残さないと自分の仕事は完成したと思われないんです。

つまり、ミッテランは国立図書館を造りました。そして、シラクはさっき話題になったケ・ブランリのデュージェンスつまり、ミューゼに関するものをやればいいんです。それが名を残すという「貴族の義務」というフランス語があります。「ノーブレス・オブリージュ」。その貴族の義務というのは、持っている者、地位のある者は、つまり、ナイチンゲールのように、あの人も貴族でしたが、救済あるいは支援をする。それがずっと続いているのがフランスなんです。それをやってもらうためにはやっぱりね、日本では10世紀くらいかかるわね。はい、長生きして下さいということです。ありがとうございました。

柴野 ありがとうございました。

霜田 ありがとうございました。


偕子の作品

霜田の作品




「文学と美術のライブラリー游文舎」主宰者・柴野毅実、霜田文子に聞く

インタビュアー 偕子・風間・OBER(オベール)

       

トモコ この街で文化的事業を行ったきっかけは?

霜田 当時、読書会をしていた仲間で柏崎中央病院の副院長先生、星山真理先生とおっしゃるのですが、真理先生が、ご自分の病院の施設で空いている建物があるので文化施設として活用してくれないか、と言われたのが16、17年前。柴野さんに言われ、それから私たち(当時は数名いた)仲間が一緒になって、ギャラリーと、本が好きなので、柴野さんのお友達で蔵書家の方もいらっしゃったので、図書室とギャラリーの施設にしようと動き始めたところに、中越沖地震が起きて、震度6強の直下型地震でしたが、柴野さんのお友達の家も全壊して、そこから本を救い出した。

柴野 そこにあるのは、私の友人二人の本が中心なんです。一人は20年前膨大な蔵書を残して癌で亡くなり、もう一人は30年前、分裂病で破瓜状態となり精神病院に入院してしまいました。その二人の家が地震で全壊して、たまたま中央病院の先生が言って下さった施設に運び込むことができた。

霜田 中越沖地震の翌年2008年、オープンしました。その建物が道路拡幅工事のため取り壊されることになって、7年前にこちらに移転してきました。

トモコ 絵を描く、アーティストとしての思いで立ち上げたのですか?

霜田 というよりは、柏崎にそういうギャラリーとか、展示施設がなくて、しかも展示するとしても評価の定まった作家を呼んでくるくらいで、今、自分が見たい、今現在活躍している作家とか、今の動きを見たい、という作品を見る機会がなかった。作家の立場としては、作家の気持ちを奮い立たせるような作品を見る機会がほしいな、と。あと、地元で、独自の作品を作っている人たちの活動も紹介できたらいいなと思った、それがギャラリーの方のコンセプトになっています。

トモコ 今回、私との二人展を企画してくださいましてありがとうございました。そのきっかけを少しまとめていただけますか?

柴野 偕子さんのお友達で、パリで三人展をしたもう1人、東京の置鮎さん、彼女は20年くらい前、ここではないんですが、柏崎で個展をして、その時私と知り合った。そして5年前、パリで三人展をするのでもう一人紹介してくれないかということで、私は霜田さんのボックスアートは、何処に出しても恥ずかしくない作品だと思っているので、勧めたわけです。それがきっかけで偕子さんと知り合いました。

トモコ 霜田さんの印象はとても真面目な人。面白かったのはね、着いたときにひとつのボックスの作品が壊れていて、彼女は夢中になって作ってる、明日からだから当然なのだけれど、その顔がすごく真剣で、何処に来たかも分からないくらいに自分の世界で一生懸命作っていて、それがすごく印象的だったの。学生みたいな真剣さを感じた。しかも、三人展は「黄色いベスト」のストで……。

霜田 毎日、歩いてばかりでした(笑)。パリは初めてでしたから。でもカルチェ・ラタンという憧れのところでできて、いろいろギャラリーも見られてうれしかったです。実は私にはパリは「敬して遠ざける」というところがあって。洗練されすぎている気がして。ドイツやイタリアには行ったことがあるけれど、パリは初めてだったのですが、やっぱり絶対何度でも行くところだな、と思いましたね。すごい文化の厚みを感じました。

トモコ そしてパリで出会って、私からお願いして二人展を企画してくださった。

霜田 光栄です。先ほども言いましたが、柏崎で見られる美術ってほんとに限られているので、やはりパリでちゃんとやっていらっしゃる作品――偕子さんの作品みたいなものを柏崎で見る機会ないですもの。ほんとに柏崎の人に見てほしいなあと思って、ぜひぜひ、と。偕子さんが六日町ご出身というのは意識しました。里帰りとね。でももうひとつは、そんな雪国の生まれで、これだけすかっと突き抜けたような明るい絵を描かれるというのもすごくびっくりというか、いいなあと思いました。

 

トモコ お二人の今後の夢、希望は?

霜田 自分のこととしてはこれからも続けられる限り、絵画や造形、そして北方文学の文章を書いていきたい。同時進行は大変だけど、作品はみんな私の脳内地図、自分の頭の整理でもあるので。ギャラリーの活動としては、観客数は決して多くはないけれど熱心に見てくださる方がいる。迎合することなくこの線で行きたいです。そこに来る人同士、時には作家とも身近に接することができる空間を大切にしたい。今展でも偕子さんの丁寧な対応で、観客の反応が全然違いました。それと若い人、この街には美術系の学校がなく、若い人はなかなか集まってくれないけれど、だんだんと若い作家の発表の機会も増えてきました。今年の秋にも楽しみな若手作家が続きます。そういう人を紹介し、応援する場になれればいいなと思っています。いずれは彼らがパリでも、となったらすてきですね。

柴野 年に一回の有名作家を招いての講演会も大事な事業です。これまで、リービ英雄氏、多和田葉子氏、巌谷國士氏、高橋睦郎氏、田原(ティエン・ユエン)氏などに来ていただいて、講演会を開いています。主催者の特権として、一流の作家や学者さんとお話しできるのは得難い体験になりますし、それを起点にして地方の文化活動に刺激を与えることができれば、と思っています。あと何年続けられるか分かりませんが、体力の続く限りは続けていきたいと意気込んでいます。游文舎のような空間は地方では珍しいので、美術や文学の活動を通して様々な人たちの出会いの場となってきましたし、これからもそうありたいと思っています。

※田原(ティエン・ユエン)氏は日本在住の中国人詩人