アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「ナイジェリアの太陽」No.14

カノの病院で

先月号で書いたが、私は強盗に入られた後ショックで体の具合が悪くなり、会社の車で運転手と一緒にナイジェリア第二の都市カノの病院に行った。「あれが病院」と分かるほどナイジェリアでは異質で、白い3階建くらいの四角い建物が赤土の上に建っていた。庭を通り玄関口にたどり着くまで、沢山の人がその赤土の上にムシロを敷いて座っていたり寝ていたりしていた。

「この人たちは患者?」。お湯を沸かす為のアルミのヤカンと薪も傍らにおいてあった。いつものように10個くらいの落花生の塊を売っていたり、小瓶(コ-ラや他の瓶)なども売っていた。建物の中に入り、いくつもの廊下を右折左折しながら、直接医者のいる部屋に入り、現地の医者に診察してもらった。私はなんとか英語と身振り手振りで説明したが、医者も良く分からないようだった。ショックから来る体調不良など、どこの国にいようと時間が解決するしかない。私がボーッとしていたせいかもしれないが、聴診器のほかは何も見当たらなかった。医者は薬の処方箋を書いてくれて別の部屋で薬をもらうようにと言った。

別の部屋の棚には薬らしきものは見当たらない。ただ脱脂綿がビニール袋に入っていた。机の上には唯一ひと抱えもある透明のガラス瓶に「赤チン」が半分ほど入っているだけであった。ねじった古新聞でビンの口をフタしてあり、その周囲にはハエがぶんぶん飛んでいた。看護婦さんが「小瓶を持ってきましたか?」と私に言った。「いいえ」と答えると、「外で買ってきてください」と。えっ、あの汚い古い小瓶は薬を入れる為に売っていた?

何ももらわずに帰るつもりで病院内のトイレに寄った。ドアを開けたら、床上10cmくらいお小水がたまっていた。大にいたっては便器に山盛り……。現地の人たちがしているように外で用を足すのがいかに清潔ですがすがしいことかがよくわかった。コレも私には悪夢のトラウマになった。

病院の庭にいる患者たちは遠くからも来ており、煮炊きしながら順番を待っているのだ。しかしここまで運んでもらった人たちはまだ良いほうで、ほとんどの病人がいつか村で見たように薄汚れたダンボールに寝かされて死を待っているという状態だ。いわゆる日本語でいう「箱物(この場合病院)」はどこかからの援助でとりあえず建てるが、維持していくにも中身は何にもないのが現実だった。

この頃、日本は東京オリンピック景気から高度経済成長を経て第1次石油ショックから抜け出し、やがて1986年頃から始まったバブル経済へと向かった時代だったという。この時代の日本を知らない私は1980年代のフランスとアフリカの狭間でアーティストとしての歩みを模索していた。

ナイジェリアの昼

ナイジェリアの夕

「歴史あるカノの町」1980年頃のナイジェリアの絵ハガキ

(つづく)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。