アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.39

画家-Maryline Lefebvre【マリリンヌ・ルフェーブル】-感じたことを描く事は自由への開発

パリの北西に広がるヴァル=ドオワーズ県。ここではパリを通って流れてきたセーヌ河にオワーズ川が注ぎ込む。南ベルギーを源泉とする250km程の小さな川だが、風光明媚な自然と穏やかな流れのオワーズ川の畔は、昔から人々を惹きつけて止まない。そのなかでもオヴェール=シュル=オワーズの村は、ピサロ、ゴッホ、コロー、セザンヌらの巨匠が逗留していた村で、彼らはたくさんの芸術作品を残してくれた。村は今もそのまま巨匠たちの絵画の世界でもある。

ポーランドのシンポジウムで。右からマリリンヌ、市長、筆者

印象派の巨匠たちの故郷

「1942年に、私はオヴェール=シュル=オワーズ村の近くで生まれました。一人っ子でしたので、『おとなしくおだやかな性格のこどもだった』と母が言っていましたね。父は会社の監査役員で、母は家で洋裁をして家計をより豊かにしていました。広い家と広い庭があり、何不自由なく両親の愛を一身に受けて育ちました」

しかし、彼女の生まれた頃は、第2次世界大戦でヨーロッパ中が戦争色に染まっていた。40年ドイツはオランダ、ベルギー、北フランスを制圧した後、パリはドイツに侵攻されてドイツ支配下にあった。当時の記憶は部分的にではあるが鮮明に残っているという。

「小さかったので、何があったのかよく理解してはいませんでした。サイレンの音が響くと、急いで暗いカーヴ(地下室)に降りて、父の腕の中に抱かれてじっとしていたことを覚えています。カーヴの中には人がぎっしりいて、みんな息を潜めて静かにしていました。私のような小さな子どもたちは、その異常な空気におびえながら必死に親にしがみついて時がすぎるのを待っていました。とても長い時間だったような気がしたものです」

そして44年、終戦を迎えたが、戦後の2~3年は飛行機が飛んでいる音が聞こえると、すぐにカーヴに逃げ込んで行ったという。

「幼い頃体験した感情はなかなか消えることはありませんでした。しかし、どういう状況にあっても両親が守ってくれたことを感謝しています。何よりも印象派の画家たちを魅了した自然豊かな美しい村々があるところで育ったことが、私の人生を豊かにしてくれたと思います」

5歳過ぎた頃からクレヨンで絵を描いたり、塗り絵をしたりしてようやく平和のときを過ごすことができた。その頃配布されていたディズニーキャラクターのミッキーマウスの子ども用の新聞などに、毎回胸をときめかせていたと話す。

10歳のとき初めて絵をキャンバスに描いてみた。それは木の棒で木枠を作り、そこに古いシーツを張って作ったものであった。子どもの頃から好きで描いていた絵を、紙ではなくてキャンバスに描くのが夢だったからだ。

戦争中に誕生したマリリンヌだが何不自由なく育った

少女時代を美しい村でのびのびと育ったマリリンヌ

優しかった母とマリリンヌ

創作活動は子育てと仕事とのバランス

母のすすめでクラシック・バレエを近くのコンセルヴァトワールで習い始めている。「さらにサル・プレイエル(*)でもテクニックを上達させました。バレエは10歳から20歳になるまで約10年続けました。今でもモダン・ダンスや社交ダンスを含め、踊ることは大好きです」と、のびやかな美しい足でバレエ特有の姿勢で立ってくれた。それでも「いつも絵は描き続けていました」

やがて、希望していた芸術学院に入学するが、学生時代に出産のために退学、生活のために秘書の資格を取得する。パリの会社に秘書として就職したのは、学生時代に結婚した夫と共に3人の子どもを育てるためであった。それでもやはり「絵を描くことだけは止めませんでした」

「1人っ子だったので、たくさん子どもが欲しかったのよ。2足の草鞋(わらじ)のために、私は朝早く起きて仕事の前に絵を描きました。そうすると仕事も上手くいったのです。若かったから、私は睡眠時間はそんなに必要としなかったのでしょうね。仕事の後、夜間の美術学校にも通いました」

13年後離婚し、新たなパートナーとの間にも息子を出産、仕事をしながら子育てとともに作品の発表を続けていたという。

才能や努力があればできるということではないと話す。それはフランスの国や自治体の3人の子どもたちに対する手当てや、彼女のその後の選択であるシングル・マザーに対する手厚い援助がないと不可能なことであった。パリに隣接するモントルイユ市の彼女の住んでいる大きなアパルトマンや、定年まで勤務した仕事などに対してフランスの国はいかに援助の手を差し伸べたか伺い知ることができる。

4人の子どもの子育てと仕事のバランスをとりながら創作活動に打ち込むことが可能な環境は、「恵まれていた」と話す。だから彼女は人生のさまざまな困難にぶつかっても、絵を描くことを決してあきらめることなくやり続けることができた。

「国は未来を担う子どもたちと女性の社会的な位置を保障することに熱心でした」

次男を産んだ日の記念写真(20代のマリリンヌ)

美しい娘の結婚式で

点描画の作品の前で孫を抱いて

孫とともに

子どもたちに絵を教えているマリリンヌ

日仏及びモントルイユの芸術文化の発展に貢献

「秘書の仕事の合間に、長年著名な画家ジェラルド・ディクロラのアシスタントもやっていました。私はその頃グランパレのアンデパンダン展などのサロンに出展したり、ブルターニュや南フランスの画廊で個展をしたりして、めまぐるしく活動していました」

やがて活躍の場は広がっていった。89年からフランス国モントルイユ・アート協会の副会長を務め、長い間モントルイユ市の文化芸術の発展のために協会に貢献してきた。

また、2004年以降、日本の大阪を拠点とする「ミレー友好協会」のミレー展(大阪美術館、山梨美術館、富山美術館等にて開催)に出展、08年以降は東京で開催するアート未来展(毎年国立新美術館にて開催)にも出展し続けている。日仏の芸術文化交流にも欠かせないアーティストの一人として貢献している。

「ミレー友好協会のトモコ(筆者/ミレー友好協会パリ本部事務局長)がモントルイユ・アート協会に入ってきて以来、アーティスト仲間で一番親しい友人となったわ。おかげさまで日本とヨーロッパ各国のアート・シンポジウムに参加する機会も与えられて、本当に感謝しています」と、私(筆者)に最高の友情のことばを贈ってくれた。私こそフランス人画家のなかで最も親しい友人の一人として、日本、フランス、ポーランド、ベルギー、ドイツなどで開催されるアート・シンポジウムに共に参加したことにより、刺激し合いながら有意義な楽しいときを過ごすことができたと思っている。

また、彼女はさまざまな賞を受賞しているが、中でもオヴェール=シュル=オワーズのコンクールでグランプリを受賞したときは「とても嬉しかったし、さすがに感慨深かった」と振り返る。

「人生で最も大事なことですが、創作は『生きるための必要性』と『感じたことを描く事は自由への開発』です」

)サル・プレイエル パリの8区にある1839年に造られたクラシックのコンサートホール。歴史的な建物でショパンを初め有名な音楽家や交響楽団が演奏した。世界的ピアノメーカー「プレイエル社」があった。

ポーランドのシンポジウムで創作

ドイツのシンポジウムで製作中のマリリンヌ

ゴッホの麦畑で描く

オワーズ川を描く

自然の中に作品を展示する

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家・ミレー友好協会パリ本部事務局長)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。