アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.68

パリに向かう若者たちの力-Yoshitaka SUZUKI-ダンサー・振付師

昔から日本の若者たちは母国を後にし、更なる向上を求めて海外に向かった。それは現在も同様に続いている。これは日本だけではなく世界中の若者の現象で、パリに長く住んでいる私の感じている事だが、このパリに向かってくる人たちはまるで砂漠で水を求めるように集中し押し寄せてきていることだ。しかし、約3年後にはふるい落とされ、帰国するか、または泣く泣く進路変更せざるを得ない。これは実力者の層が否が応でも厚くなっている場所に、自分の力をぶつけて戦ってきたにもかかわらず、「なぜだ」と疑問符が付く時が約3年目。その後本当の闘いが始まるのだが。私が約40数年前にパリに来てすぐ分かったことは、私はアジア人で女性で、20代後半でフランス語もままならなかったという幾つものハンディであった。目の前にそびえ立つ壁をどうやって乗り越えたらいいのかと思案した。壁に穴をあけるか、よじ登るか、土を掘るか、この時ほど翼がほしいと思ったことはなかった。

yoshitaka SUZUKI

パリのカフェで

筆者トモコと

テニス少年からダンサーへの道

約束のパリ市庁舎の前で、既に彼の顔写真を見て知っていた私は、身長184cm・体重65kgの若い男性ダンサー・Yoshitakaと会ったのだ。すぐに打ち解けて、近くのカフェでダンサーを目指した少年の頃の話から取材をはじめた。

「私が中学3年の時、友人のビテオでマイケル・ジャクソンのダンスを見て衝撃を受けたのです。実はそれまではテニス1本で、しかもその地域の進学高を目指していた頃なんです。M・Jのダンス表現にすごく感動し、自分もあのようなダンスを踊りたいと思ったのです。本当に自分がやりたいことに進路を変更するべきだと道を示されたと思いました。決心してからはダンス三昧です。何かを表現して人に感動を与えられる人になりたいと思いました。みんなに『うまい』と褒められるのも嬉しかったです」。当時の彼の若く希望のある少年らしい力が伝わってきた。

「秋田県立秋田高校に進学することができ、ダンス・スクールにも通いました。本当は高校から東京に行きたかったのですが、父は反対し高校をきちんと卒業してからという事になりました」

高校を卒業後、東京スクールオブミュージック専門学校(名誉会長・湯川れい子)に入学して2年間沢山の事を学ぶことができたと話す。

「それこそ朝からダンス漬けでしたが、ダンスだけでなく、ダンスに関わる総合的な文化的背景なども学べ、ダンスへの深みが増しました。UKジャズダンスと出会い、歌や演技なども勉強出来ました。学校主催の骨髄移植推進キャンペーンミュージカル‘明日への扉’で2年間主役のダンサーとしても出演することができました」

ダンス修行に世界へ羽ばたき、一線のプロのダンサーへ

2005年24歳のときに渡米、NYのペリー・ダンスセンター、ブロードウェイ・ダンスセンターやクラブなどで本場のダンスを学ぶ。NYハーレムにある有名なアポロシアター「アマチュアナイト」で、世界から集まったパフォーマーたちが居並ぶ中で準優勝を2度勝ち取っている。

NYのダンスカンパニーにも所属し、タイムズスクエアやラスベガスでも踊った。「アメリカには経済的なことからも3か月の滞在予定でしたが、結局4年間いました。世界中からすごいダンサーたちがたくさん集まってきて凌ぎを削っています。強烈な刺激を受けましたね」

その後、世界一周ダンス放浪の旅を経て帰国。2年間、日本でダンサーとして生きるために、SMAPの‘We are SMAP'コンサートツアー、北京公演のバックダンサーを務める。過去にはケツメイシ、氷川きよし等のバックダンサーも経験している。

2012年30歳でUKジャズダンス発祥の地ロンドンへ向かった。UKジャズダンス・ビバップのIrven Lewis, Wayne Jamesに師事。ハイネケン全世界CM、SONYブラジルW杯CM、Amazon music Web CM,Incognito、Mario Biondi のPV、モデルとしてナイキ・全英ファッションショーにランウェイ(2013.2014)等で実力を披露、軌道に乗ってきた。

YOSHITAKA DANCE LIVE(2016) 
Photo by Sho Sugano(Photox)

秋田市道川大滝 Photo by Irven Lewis

ロンドンSmithfield Market Photo by Mayumi Hirata

YOSHITAKA DANCE LIVE(2016)

秋田の行事に出会い、UKダンスと日本の伝統の融合を試みる

2014年に一時帰国し、故郷の秋田で藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」に出会い、その雄大さと躍動感に感動、秋田の民族芸能や踊りなどを学びはじめた。2015年、日吉八幡神社で秋田県立美術館主催のイベントにて「秋田の行事」を踊りで表現。2016年には400年以上続く秋田市無形民俗文化財「羽川剣ばやし」の失われた剣舞を創作し復活させたのだった。

「きっかけは美術館で打ち合わせをした時に、初めて秋田の行事を見て衝撃を受けたのです。秋田音頭の手の意味、いわゆる手踊りやポーズなど、今まで学んできた動きと真逆の感性です。例えば手の動きがバレエなどは円になりますが、秋田の場合は手をそらせますね。 有り難い事に美術館の方に紹介して頂き、フジタの絵のモデルになった人の孫が、私の秋田踊りの先生だったのです」

2018年11月の新聞「秋田魁新報」に、「欧州で‘秋田’を舞う」と大きく掲載された。ドイツ、スコットランド、そして10月はパリの日本館で「日仏友好160周年祭典」の一環として、秋田県とパリにゆかりの深い世界的画家・藤田嗣治の絵の前で踊った。

取材で彼は、自分の両腕と手で美しく動かし方の違いを表現した。夕闇迫るパリのカフェの中で、いろいろなカラーの光に照らされたYoshitakaの姿は、黒鳥が舞い降りたようで美しく、思わず別世界に引き込まれるような……。大きく文化の異なるそれぞれのダンスを飛び越えて融合させることができたのは、これまでに世界のダンサーや振付師から得た技と、人一倍の努力と精神の鍛錬、そして才能の結束の表現であろう。彼は一生学び続けようとしている。「これで良し」ではなく「よりもっと良く」という果てしない向上心と好奇心であろう。

彼はこれらの実績を持って2016年よりオランダのアムステルダムに拠点を移した。

「ビザの関係です、オランダでは年齢・職種の制限なしに日本人は働けるビザを取得出来ます」と、現実的な問題でオランダを選んでいる。フランスの場合、仕事の制限や年齢制限や外国人にとっては狭き門で、ビザ取得が大変困難な国である。

彼は今、ヨーロッパ各地でUKジャズダンスと日本の民族芸能を融合させた表現でパフォーマンスをしている。大潟村応援大使でもあり秋田県人会などでも活躍、さまざまなダンサーとしての仕事で生活や活動が支えられているという。しかし彼の一番の理解者と応援者は両親であろう。

ダンサーを10代から目指して約20年間、37歳の今や世界に羽ばたくダンサーとなったYoshitakaは、「今後はまたヨーロッパ・ツアーを考えています。できればパリ郊外のフジタの家(美術館)か、そのフジタの暮らした村でパフォーマンスをしたいですね」と、さらなる目標を定めている。日々、身体のメンテナンスに2~3時間のトレーニング、サウナ、良く寝て、食べるを継続している。「いつ仕事がきてもできる状態に体を鍛え調整しています」と、自信に満ちた清々しい表情を浮かべた。

アムステルダム2017年元旦

エジンバラ公演(2018) Photo by Garry Platt

男鹿赤神神社五社堂の前でパフォーマンス

ジャポニズム2018・日仏友好160周年記念祭典

YOSHITAKA OFFICIAL WEB SITE(http://yoshitakasuzuki.com/)

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。