アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「あの日のことなど」No.1

宇都宮空襲

昭和20年(1945)7月12日夜、宇都宮は空襲を受け、中心市街地の6割が焼失し、620名以上の死傷者を出しました。

今回からコラムを持たせていただくことになりました、ピースうつのみやです。まず、自己紹介させていただきます。私たちは、栃木県宇都宮市を拠点に活動している市民団体です。主旨としては、宇都宮空襲など太平洋戦争で経験した“戦争の非情さ・愚かさ”を忘れず後世に伝えていき、“いのちの尊厳”“恒久平和”を訴えていくこと。昭和60年(1985)に「平和祈念館建設準備会」として結成、平成8年(1996)に「宇都宮平和祈念館をつくる会」に改組、平成27年(2015)に現在の名称に変更と、のべ30年近く活動を続けています。主な活動内容は、3つで、残された当時の生活用品や兵器などの資料を見ていただく「宇都宮空襲展」・田川(宮の橋)で行う、空襲などの犠牲者を追悼する「ふくべきぶな灯篭流し」・市内に点在する戦跡を巡る「ピースバス」を年一回開催しています。

このコラムでは、私たちの活動をお知らせしていくとともに、いままで空襲展やピースバスなどの時に寄せられた”戦争・空襲体験談”を紹介していきたいと思います。実際に経験された方だけでなく、祖父母・親・親戚など身内の方から聞いた話など幅広く集まってきてますので、より具体的に、“あの日・あの頃のこと”を実感してもらえればと思っています。

1回目は、私たちの活動のきっかけともなりました「実録! 宇都宮大空襲」を紹介します。これは、昭和48年(1973)に「月刊栃木」という雑誌に発表された一文で、徳田浩淳氏が書かれたものです。徳田氏は、宇都宮市役所吏員として勤めるかたわら郷土史を研究調査されていた方で、私たちの会の代表をされていました。「実録!~」は、自宅が全焼しながらも市役所吏員として働いた空襲後約一週間の事が書かれていて、家族や街の人々の様子や市の対応などの状況が、事細かにわかります。

そのなかから今回は、空襲が始まったときの記述を抜粋します。

“その日は数日来の霖雨が街をすっぽりと包んでいて、夜になってもまだ降り止まなかった。七月に入ってからの宇都宮市民は、急遽荷物を疎開する人が多くなり、私も、今日雨が降らなければ家具類なども田原方面へ運ぶように依頼していた。”

“昭和二十年に入って戦局はようやく我が国に不利な情況ばかりであり、人々はわずかに日本の国体を信じ、「弘安の役のように神風でも吹くのではないか?」との奇蹟のみを一縷の頼みとして、苦しい、たまらない、その日その日をかろうじて送っていた。”

“「おいッ、起きるんだ、警戒警報だよ!」と、私が、低いが力を込めた声で妻に呼び掛けると、妻はすぐ起きて、その足でラジオのスイッチを入れに急いで茶の間に行った。ラジオに電流が伝わると、「B29編隊!関東北部に侵入中…」と、性急なアナウンサーの声が飛び出して、何回も何回も同じことを繰り返していた。(関東北部となッ? これは大変だ。関東北部では栃木だぞ!)私の心は急にいら立ち、あたふたと身体を動かして薄闇のなかで蚊帳をはずし、布団を片付けはじめたが、何となく気がもめて動作も敏速にできなかった。と、その時…。外でドカン、ドカンと遠く、また近く、すさまじい音が響きはじめ、しかも大きく小さく連続的波状的に伝わって来た。そして、頭の上では爆音らしいものがブーン、ブーンと入り乱れて鳴り出した。”

“私は、まだ身支度も充分に終わらない子供達を抱きかかえて押入れの下に連れ込み、室の電灯を消した。手早く鉄兜をかぶり、震える手であご紐を強く結んだ。ふと硝子窓越しに外を見ると、恐ろしい光景が眼に映った。私は玄翁で後頭部を強く叩かれたように眩暈を感じ、心臓が急にギューッと縮んだようだった。”

B29

まるでその場にいたかのような臨場感ではないでしょうか。これからも随時「実録!~」を部分的に紹介していきますが、興味をもたれた方には私たちの会で以前ブックレットにしたものもありますので手にとっていただければと思います。

 

また、“私にも体験や見聞きしたことがある”という方からの応募を、いつでもお待ちしておりますので、お寄せください。

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