アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.112

年よりの冷や水 ~よそ者・若者・ばか者~

1月中旬、スキーの初滑りに出かけてブーツを忘れ、この際、スノーボードに挑戦してみようとスクールに入った。申込用紙に記入しゲレンデに向かったが、ボードはスキーと違い立つこと自体が難しい。東京生まれで、妻の実家で農業に挑戦すべく10年前に脱サラし秋田へ移住した感心な指導員に、「その齢でボードを始める動機は?」と問われ、「危ないからとずっと家族に反対され続けてきた。今やらねば一生後悔すると思って」と答えた。

よせばいいのにこの顛末を秋田魁新報のフリーペーパーに連載中の『輝きの処方箋』に書いた。即反応あり、若い患者は「すぐヘルメットを買いなさい」、宅配のおばさんは「その年で…エライ!」と、呆れたとは誰も言わない。退くに引けなくなり翌週も出かけた。スキーならまず転ばないが、ボードでは転倒の連続。目を回して帰宅すると「年寄りの冷や水」と家人。

誰が言い出したか、「よそ者、若者、ばか者」が世を活性化するという。変わったことをすると咎める「足ひっぱり文化」への処方箋か。一説では、明治維新で幕府が倒れるや朝廷の公家らは幕府そっくりの体制を考え、それでは何のための苦労だったのかと西郷隆盛らは慌て、封じたという。戦も政もなくタダ飯を食うだけだった公家らは王政復古の大号令に雀躍したものの、備えもなくどうしてよいか分からなかった。彼らにすれば薩長藩士は「よそ者、若者、ばか者」だったに違いない。

40年前は外科医も麻酔科医も術中死を恐れ70歳以上の患者の手術を避けた。今は90歳でも行うが、技術革新だけでなく、「手術で体を開けると70歳の血管は昔の50代の若さ」といわれ、60の手習いは70の手習いへ、年寄りの冷や水も自嘲や自重をしなくてよくなった。ともあれ「昔から女が多い井戸端会議は時間が…」と女性蔑視ともとれない言い草に似た発言で五輪に冷や水を浴びせた爺は退任し、木を見て“森”を見ずという人もいる。超老人は「隠遁者、じゃま者、ボケ者」か。

2021/2/14

秋田県大仙市協和スキー場にて

秋田内陸線萱草鉄橋(北秋田市阿仁)

21-02-08 レター56

輝きの処方箋

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。