アートセンターサカモト 
栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.133

熊 ~手負いの獣とストーカー~

今年も秋田は熊の日々である。マタギの阿仁地区リンゴ畑には今年1頭も出ないのに秋田市内の住宅街では生徒の通学路がケモノ道になったらしい。大人たちが付き添っているものの非武装丸腰の同行がどんな役に立つのだろうか。繁華街の倉庫に侵入し民家に押し入り、私が通う近所のスポーツジム近辺にも出たため自動ドアはスイッチを切った。熊が通ると勝手に開くから手動に切り替えたのである。八幡平の鏡沼に残雪と氷溶けが綾なす「ドラゴンアイ」を撮影に出かけた人も霧の山中で熊と遭遇し外傷を負った。

吉村昭の『羆嵐』は大正4(1915)年に北海道の開拓集落三毛(さんけ)別(べつ)で発生した事件を描いている。冬眠の時機を逸した巨大ヒグマが6人の住民と胎児1人を次々牙にかけた。人の味をしめたヒグマがガリガリ肉ごと人骨をかじる描写は凄まじい。ポリスは人間が大勢ならヒグマは逃げると考え住民を動員する。だがヒグマはひるむどころか大量の餌が来たと思っていると人々は気づく。最後は変わり者の漁師が至近距離から銃で仕留めたが犠牲はあまりにも大きかった。

秋田県角館に住む佐藤隆(りゅう)さんは和賀山塊のベテラン案内人だ。作家の塩野米松氏、今年1月に死去した写真家の千葉克介氏と3人共著で『千年ブナの記憶』(1995年)を出している。そんな彼が熊にやられ、当時の模様を新聞で語った。「私の後ろにいた客が私のすぐ横に熊を見つけ大声をあげた直後、体長270㎝、383㎏の巨体も私に気付き襲ってきた。手術用メスのような鋭い爪で右まぶたが2つに切られ、鼻も斜めに裂け軟骨は折れ、爪は歯茎の奥に達していた」「奥山の熊は先に人に気付いて逃げる。だが里山の熊は車の音や人の声に慣れていて逃げない」「発見したら人間がここにいると気付かせたり驚かしたりしてはダメだ」

食物連鎖の頂点に立つ熊は知能もプライドも高い。人間に傷つけられると執念深く復讐しようとする。だから手負いの熊は命懸けで仕留めろといわれてきた。そこで連想するのが人間のストーカーだ。事件発生前ストーカーは既にポリスから接近禁止命令を受け支配欲もプライドも傷つき怒り心頭である。妄想もストーカーの思考も変えることは絶望的で、いわば手負いの獣だ。しかも熊のように罠を仕掛け仕留めることもできない。もし運悪くストーカーや妄想の対象にされたら「三十六計逃げるに如かず」である。

13歳少女の詩『なぜ逃げてはいけないの』が昨年話題になった。なぜ逃げてはいけないの。逃げて怒られるのは人間くらい。他の生き物たちは本能的に逃げないと生きていけないのに…。角館の佐藤隆さんは山の神様に今日の安全を祈願してこう祈るそうだ。アブラウンケンソワカ…。〈2025.6.26〉

千葉克介・角館西宮家屋外展(2002年6月)

『五月雨の石ケ戸の瀬』 千葉克介

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。