アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.92

快挙の周辺 ~金足農業高校野球部をめぐって~

甲子園を賑わした金農(かなのう)こと秋田県立金足農高は当院から南へ7キロ、車で15分、JR駅1つ隔てた潟上市と秋田市の境界に位置し、近辺には卒業生がやたら多い。レギュラー選手9名も全員が両市と隣町の中学出身で、典型的な地元高校である。1915年の第1回甲子園大会で秋田中学(現・秋田高校)が準優勝し、第100回の今年、秋田勢が103年ぶりに決勝まで快進撃したことで大騒動となった。今夏の豪雨や酷暑、台風21号に北海道地震と災難続きの日本や秋田に、金農が何をもたらしたか、当院外来で耳にした話を列挙してみたい。

 

▼82才女性 お盆前に夫が突然亡くなって、しかも葬式直後に入院中だった97才の実母が心肺停止して病院に駆け付けた。そしたら金農と日大三高の準決勝がテレビで始まっていて、私たち家族も先生も看護師さんもみんなそっちに夢中で、私も泣くのを忘れて金農を応援していた。

▼29才自閉生活OB男性 今回は一生分のものを見せてもらいました。でも僕は変わりません。

▼50代消防署員 準決勝と決勝の日は放送時間帯に救急要請の電話がゼロでした。ほんとです!

▼60才秋田市上下水道局職員 決勝の時間帯の水道メーターはがくんと減って、終了直後から倍になっていました。

▼84才元教師 …金農…私…この年まで生きてきて…(目頭を押さえ、あとは言葉にならず)

▼45才介護施設主任 決勝の時刻に県庁で研修があったのでのですが、講師も受講者と一緒にスマホで観戦して、終わった直後にあの慢性渋滞の新国道を通ったら、走っていたのは私の車だけ!

▼金農近所の73才女性 金農選手は顔ですね。昔の選手たちに比べたらすっかり垢抜けしちゃって。勝ち進んで何度もテレビでアップされてイケメン揃いだったから人気が出たのよ。さすが秋田!

▼50才女性 入場料だと思って1人1万、夫婦で2万、金農へ行って寄付してきました。あんな感動をタダ見で済ますわけにはいかないでしょ?!

▼85才女性 決勝で金農が2点しか取れなかったってデイサービスで論争になったの。もう2、3点ほしかったというのと、あの2点は20点分の価値があるという人たち。年寄りは欲張りで嫌だ。

▼45才工業高校女性教諭 私のクラスは勉強嫌いばかりで、教室も騒がしくて嫌になるけど、金農の決勝は校長が全校生徒を体育館に集めて観戦しました。私、この高校にきて生徒と職員が一体になるのを初めて見ました。

▼肉屋の親父 ベスト4が決まった日、金農の豚舎で子豚が9匹生まれたの知っている? 9匹にレギュラー選手の名前を付けるとか言っているけど、卒業式の頃が食べごろなんだよね。

▼甲子園へ車で片道12時間4往復した60才 決勝ではメガホン持っても疲労と熱中症で声が出なかった。帰りにポリ公のネズミ捕りにやられて腹クソ悪かったが、後輩にはいい思いをさせてもらった。

▼喫茶店主人55才 野球ばかり見ていたら畑が雑草軍団にやられていた。昭和天皇は『雑草はない』ってね。雑草軍団、泥臭い野球とか嫌な言葉だ。

▼85才女性 息子から先生に『金農パンケーキ(リンゴジャムをあきたこまちの米粉パンで包んだ)』をどうぞって。金農オリジナル『蛭と虫よけスプレー』も必要なら次の外来に…。

▼キリスト教系信者の女性 準決勝まで続いた劇的な逆転勝利。あれは神様がまだ金農の務めは終えていないと判断されたからなのです。アーメン!

▼大久保駅前のラーメン店主 選手2人が店に来てラーメンを注文した。ところが客たちがサインや写真をねだってすっかり麺が伸びちゃって気の毒だった。2人とも子供の頃からの常連なんだよ。

▼88才自治医大恩師の手紙 秋田は食べ物と秋田犬だけかと思っていたら野球も凄い。最後に負けたのが良い。負けるが勝ちで、桐蔭より目立った。

▼62才金農OB 県外でも公立の農業高校ということで騒いでいるようだが、あまり勉強のできない田舎の高校くらいにしか見てなかったんだな。でも金農は受験の偏差値が数年前から高くなって、勉強もできないと入れない学校だよ。

▼梨農家の女性 吉田投手は試合の開始に「刀を抜く」、9回の守りに「刀を納める」ユーモラスな仕草をしていたけど、あの子の爺さんも若いころは美男子で愉快な選手でしたよ。

▼93才視聴覚障害の認知症男性 イアホンで中継を聴いた。生きているうちにまたあんないい気分を味わえるのはもう難しいね(付き添いの息子65才曰く、生きているうちに無理なのは俺だって同じ。父さん、お互い、冥途のいい土産ができたね)

▼58才潟上市職員 反り返って校歌をうたう姿が誇らしかった。何といっても歌詞が抜群だ。とにかく金農は秋田県の老人たちを元気にしたね。

 

大会期間中、観客数は初の100万人突破、101万数千人だった。超えた分はたぶん秋田県民と出身者である。準決勝と決勝の最中に当院を受診した数名の患者は病気より非常識が重症としてブラックリスト入りした。

潟上市広報

秋田魁新報社の写真集表紙

写真集から

吉田投手のシャキーン!

金農最寄り駅前の商店

金農の「紫」で祝福したセリオンタワー

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。