アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「栃木のステキ」No.17

「奥深い津軽三味線の世界を広める」‐津軽三味線奏者 長谷川裕翔‐

家元の弾く『三下り』に感動

涼しい風が暑さを沈めてくれた7月の午後、お寺の本堂で津軽三味線の豊かな音色が鳴り響いていた。激しく、もの悲しく、音はまるで生き物のように本堂を駆け巡る。やがてフィナーレの曲『三下り』が終ると、津軽三味線奏者、長谷川裕翔(はせがわゆうしょう)さんが深々と頭を下げた。宇都宮市内のお寺が主催した「NPO法人 津軽三味線 裕翔会」のコンサートであった。

この日、メンバーを率いていた同法人理事長の長谷川裕翔さんに、津軽三味線の魅力と奏者の道を選んだきっかけなどを伺うことができた。

「青森在住の長谷川流の家元、長谷川裕二師匠の弟子だった母が、長谷川裕翔の名をいただいていました。母は、津軽三味線は津軽の風土を身もって体験している師匠が良いと言い、『憐れみなどの奥深い津軽三味線の音色は、あの場所にいかないとわからない』と言って青森まで通っていました。私は三味線を習うつもりはなくて、結婚してからも公演会などの時に母の手伝いをしていたんです」

ある日、裕二師匠が宇都宮市で公演を行うことになり、師匠の三味線をはじめて聴く機会があった。「その時、師匠の弾いた曲、『三下り』を聴いてものすごく感動したんです。『三味線を弾いてみたい』とこの時、強く思ったのです」

裕二師匠の弾く『三下り』に魅了され、三味線奏者の道を歩む決心をしたが、芸事をするには遅いスタートであった。すでに30歳を過ぎて、子育てと家事に追われてもいた。また、今までの手伝いではなくて正式に奏者として歩む娘に対して、今後は厳しい師匠としての母の姿勢についていかなければならなかった。

「夢中でしたね。他の生徒さんたちの倍の練習をしました。なんとか母の後を継がなければと思っていました。他の方が1年かかるところを1週間で練習して曲を仕上げたりして、津軽三味線にのめり込んでいきました」

三味線に助けられて

こうして必死になって母の下で三味線を習い、その後、母と同じ青森の長谷川流家元のところに通う日々が続いた。やがて名取となり、その後、母である初代長谷川裕翔名を継いで襲名し、プロの津軽三味線奏者として活躍し始めることとなった。

「本来は歌い手の方が気持ちよく歌えるように、後ろで演奏するのが三味線弾きの仕事なんです。

歌や歌い手さんに合わせて、三味線の弾き方も違いますし、踊り手がつく時はさらにパフォーマンスも変わってきます。また流派もいろいろあって、とても奥の深い楽器です。やればやるほどのめり込んでしまいます。それほど難しくてやりがいのある日本の伝統芸能ですね」

上を目指せば目指すほど難しく厳しい津軽三味線の世界。その魅力に憑りつかれたように練習に励んだが、奏者と子育て中の主婦という立場の間で葛藤し、悩みながら何度も止めようかと思ったと話す。

「でも聴いてくれるみなさんが涙を流して喜んでくださったり、『ありがとう』と言ってくれたりします。その言葉に励まされつつ頑張ってきました。もう限界だから止めようかなと思うときに、お仕事の依頼を受けたりして、また頑張って弾いてみようと思い直しました。不思議といつも三味線に助けられましたね。まだ弾いていていいんだよ、まぁだだよって」

十数年の三味線奏者としての道のりは山あり谷ありで、失敗も反省もたくさんあったと話す。ホテルニューアカオ(熱海)に招かれて演奏会に出演したときのことであった。演奏会は民謡歌手の第一人者であった故成田武士氏、太鼓は成田育子さんたちなどで構成されていた。緊張しながら舞台に上がり演奏をはじめたが、曲引き(ソロ演奏)をしている最中に弦が切れてしまった。

「途端に頭が真っ白になってしまいました。その時、すかさず成田先生がマイクを握ってお話ししてくださり、その場をつないでくださったのです。代わりの糸も持っていなかった状態でしたので、なんとか糸を結んで演奏をすることができました。『こういうこともあるよ』と先生はおっしゃってくださいました。舞台は生き物、何があるかわからないです。万全を期しても何かありますから……。大きな反省が胸に残りました」

夢は伝統芸能者が食べていける社会

「民謡や三味線などの日本の伝統芸能の方々は、小さな頃から一生懸命厳しい練習に耐えてその芸能を守ってきました。しかし、頑張っても芸能で食べていける人たちは、この辺りでは皆無です」と熱心に語る。

積み上げてきた日本の伝統芸能を多くの人たちに知ってもらい、日本の伝統文化を広めていきたいとの願いが強くなっていた。それには生活しながら継続しなければならないが、とりわけ地方といわれる地域では多くの伝統芸能者たちの生活が成り立たないので、仕事をしながらの芸能活動となる。何とかならないかと試行錯誤の結果、NPO法人を立ち上げて継続させていくことを考えた。

「いわゆるお稽古ごとと一線を画そうと思ったからです。このような楽器演奏や歌や踊りといった芸能は、ともすると趣味のサークルの世界として捉えられています。奏者自身も楽しければそれでいいという自己満足で終わってしまうことが少なくありません。そうではなくて、れっきとしたプロの演奏者として、きちんと対価を払っていただけるパフォーマンスを披露する集団として、みなさんに認知していただこうと考えたからです」

そのためにも様々な地域のイベントに出演し、講演活動や津軽民謡コンサートを開催し、カルチャースクールや裕翔会独自の教室で三味線の世界をひろめ、津軽三味線を核とした行動を展開していった。

「NPO法人を立ち上げたからには、津軽三味線の演奏を通して、街の活性化にも貢献したいと考えています。自分の演奏にもこれでよしということはありませんし、まだまだ極めることができないと思っています。喜んで聴いてくださるお客様のためにも、もっとレベルアップして、奥の深い津軽三味線の魅力を知ってほしいと思います。たくさんの苦労がありましたが、乗り越えられたのは周囲の方々と家族の支えがあったからこそで、心から感謝しております。私の夢ですが、地域の文化の向上のためにも、伝統芸能者やアーティストたちが、高いレベルで提供する芸で食べていける社会になってほしいと願っています」

11月3日の「文化の日」には宇都宮市内のお寺「浄鏡寺」の十夜法要で津軽三味線コンサートを行う予定がある。「今から緊張していますが、みなさんに楽しんでいただけるように、精一杯頑張ります」と、一瞬今までの笑顔が消えて、津軽三味線のプロ奏者としての厳しい眼差しをみせた。

長谷川裕翔さん、舞台を待つ楽屋で

宇都宮市「大雲寺」の本堂にて

裕翔会のコンサートを終えて

ホテルのディナーショーで

栃木県文化センターで

宇都宮市横川小学校で

中国武道団と

宇都宮市のイベント会場で

長谷川 裕翔(本名/綱川 敬子)

宇都宮生まれ。1997 年から津軽三味線を始める。青森在住の長谷川流家元長谷川裕二師匠の下で修業し、舞台、TVなどで活躍、冬期アジア大会開会式で演奏するなど幅広く活動。2007年津軽三味線全国大会合奏の部優勝。2008年津軽三味線全日本金木大会合奏の部優勝。2011年二代目長谷川裕翔」を襲名。2012年津軽三味線日本一決定戦合奏の部審査員特別賞などを受賞。特定非営利活動法人「津軽三味線裕翔会」理事長。