伝統工芸の継承と発展
―本日はお忙しいところをお時間をいただきましてありがとうございました。最初に大田原市の歴史を簡単に説明していただけますか?
市長 平成17年の「大合併」で大田原市、黒羽町、湯津上村が合併し「新大田原市」が誕生しました。これにより歴史・文化の面でもより深みと豊かさが増し、「県北の雄」としての重要な地となりました。
この地はもとより那珂川を中心とした自然の豊かさと肥沃な土地に恵まれ、縄文時代から多くの人々が生活、また渡来人の技術や知識も加わって発展を遂げ、有力な豪族も出現してきた証しとして県有数の規模の「上・下侍塚古墳」が残っています。律令時代になると「那須郡」として中央政権の北限の重要拠点となっていた証しである「那須国造碑」(国宝)が現存しています。また畿内から奥州を結ぶ官道「東山道」の駅家(うまや)も設置されていました。
那須郡を発祥とする那須氏(那須与一の逸話も有名)の領地は南の益子まで及ぶほど栄えましたが豊臣秀吉と北条氏の戦いで北条方についたため所領は没収され衰退。代わって大田原氏、大関氏(黒羽藩)が台頭し江戸末期まで改易・転封もなくこの地を治めました。松尾芭蕉が「おくのほそ道」の旅で黒羽地区に13泊も長逗留して多くの句を残したのも、その逗留を受け入れる人材の豊富さを物語っています。
明治になると県北地域一帯は政府中枢の元勲たちの別荘地や農場開拓地としてインフラ整備が進められ、湯津上には今のJA(旧農協)の元祖と言われる組織が品川弥二郎らによって作られました。
下侍塚古墳
黒羽芭蕉の館
芭蕉翁と曽良の像
竹を編む技術は縄文時代から
―伝統文化が息づいていた土地なのですね。大田原は竹工芸が盛んです。
八木澤 竹を編むという技術は縄文時代からあったようです。縄文土器の底に竹を編んだ跡が付いていたりします。そういうことを研究している人がいて、「竹を編んだ跡に10円玉くらいの穴が開いているところだけ編み方が違う。これはどうしてでしょう」と私のところに来られました。「これは修復したんですよ。穴が開いたところに別の竹を刺して繕って使っていたのではないでしょうか」という話をしたのですが、縄文の時代から編み物というものが盛んに行われていたのです。
―それは、この地域でということですか?
八木澤 その土器は那珂川町の馬頭の方で発掘されたらしいのですが、大田原でも羽田沼とか琵琶池の方で土器が発掘されていまして、そういう土器には必ず縄文時代の殻とか、竹の編み目が底に付いていました。編むという技術は古くからあったと思います。
―その時から竹の技術が継続されているということですね。
対談1
自然の素材を活かして生活を豊かに
八木澤 昔の人は生活と自然の素材とが一体化していたというか、自然の素材を活かして生活していました。木もそうですし、竹もそうです。漆もそうですね。粘土を使う焼き物もそうです。自然と生活が一つになっていたんですね。そういうものをうまく循環させながら自然を活かして自分たちの生活も豊かにという生き方をしていたのです。それがずっと続いてきた。終戦直後のモノのない時代には竹が容れ物として非常に珍重されて、需要に間に合わないくらい都会の方に運んだらしいです。それがビニールとかプラスチックとか、石油製品というものが工業化されてきて安価で量産できるものへと時代が変動して来ました。今は良いものを作らないと伝統工芸は生き残れないということですよね。芸術品にしないといけない。そういうところで我々も何とか続けているということです。
竹工芸を次世代に繫ぐ
市長 大田原は良質な竹の産地で、古くからザルやカゴなど農具や生活用具の一部を竹ひごで編んで作る「竹細工」が盛んでした。近代になって伝統的な意匠や感覚を盛り込んで芸術性の高い作品を仕上げていく「竹工芸」という分野が生まれてきました。
八木澤さんのお父様である啓造さんは「八木澤竹工房」を開き、多くのお弟子さんに技術指導をして後継者の育成に力を注いでいただきました。平成元年には県文化功労者表彰を受けています。
正さんも竹工芸家として本市をはじめ東京、埼玉など広い範囲で竹工芸を次世代に伝える活動をされています。本当に頑張っていただいています。市の職業訓練センターで竹工芸を学んでいる先生のお弟子さんは20人くらいですか。
市長
八木澤 2つの講座がありますから30人以上になります。
市長 他の職種の講座もあるのですが、先生のところが一番人気ですね。
八木澤若い人もどんどん入ってきています。最初は市民学級で父が竹工芸の講座を始めて、その後私が担当するようになりました。もう40年近く続いています。ここで学んだ方の中からプロの作家が出てきています。
市長 竹工芸は昭和57年に国の重要無形文化財に指定され、その技を高度に体得している人が重要無形文化財保持者、いわゆる「人間国宝」と呼ばれています。これまで6人が認定されていますが、現役の人間国宝は勝城蒼鳳先生、藤沼昇先生のお二人です。いずれの方もお父様の指導を受けられていたそうですね。
八木澤 藤沼さんは勤めをしながら市民学級で学んでいたのですが父が「本格的にやったらいいんじゃないか」と話したところ、会社を辞められて父の元で修業されました。その後、自分で工房を構えて現在に至っています。そういう方が結構多いですね。
市長 女流作家で素晴らしい作品を創っていらっしゃる磯飛(いそひ)節子さんは正さんのお弟子さんですか。
八木澤 そうですね。磯飛さんは、旧黒羽町の黒竹会と言う自主グループの中で学び、父の工房の教室を担当していた時の受講生でした。わずか数年で独立されています。うちの工房にきた時から30年近くなりますが、日本屈指の女流作家になりました。これから未来の竹工芸界を牽引する方だと思います。
八木澤さん
「夢」を語る
市長 やはり、八木澤先生の指導のもと脈々とそういう優れた作家たちが輩出されてくるというのは、ベースの部分でしっかりしたものをお伝えしているからだと思います。個人個人の資質を見抜いて創造性、芸術性のある作品をつくらせていく指導といいますか、そういったことが有能な人材を輩出しているのではないか、と私は端から見ていて感じるのです。
八木澤 父の教え方というのは、そういうことなのです。教えない教え方といいますか、本人の持っているものを伸ばすということと、あとは夢を与えるということ、夢を語るんですね。「これからはこういう時代になるぞ、こういうふうになるぞ、だから今のうちに一生懸命やっておきなさい」と、気持ちを鼓舞するというか、気持ちが高まるような話し方をして教えるから、みんなは自分の可能性を信じてやるんですね。その人その人の能力が発露してくるような教え方でした。
市長 基礎はしっかりたたき込んでいくわけですよね。
八木澤 非常に厳しいところがありましたね。
―そういうお父様から直接指導を受けたのですか。
八木澤 子どものころから、仕事場がすぐそばにありましたから。
―子どものころから将来は竹工芸家に、と思っていらっしゃったのですか。
八木澤 私は、あまりそういうことを考えていませんでしたが、きょうだいは私ひとりが男でしたので周りから自然と跡取りだと言われて。若いころは東京やいろんなところへ行きましたけれど、やっぱり鮭ではないですが結果的にこっちに戻ってきました。
―素晴らしい伝統工芸の担い手を輩出している大田原市ですが、次世代を担う子どもたちにこの伝統をどのように伝えていこうと考えているのですか。
自ら創造する力を育む環境をつくる
市長 少子化が進んでいく中で小学校の規模がだんだん小さくなってきています。そうした小学校を存続させるためにも特色ある学校づくりを進めていますが、その中でこの地域で育っていく子どもたちに伝統工芸をしっかり伝えていく取り組みをしています。福原小、石上小では授業などを通して竹工芸を学んでいます。基本的な心構えとか、素材の作り方、編み方といった基礎からしっかり学んでもらって、その基礎がベースとなって他所の世界に行ってもそこで学んだことが生かされるというような人材育成を学校とタイアップしながらやっていただいているところです。
八木澤 これからは特に、決められたものをやるのではなく自分たちで考え出していく、創造していくということが求められてくるのではないでしょうか。一人ひとり子どもたちが見るところは違います。ですからその子が目指したいほうに伸ばしてあげる。竹もそうなのですが、細かいものが得意な子、デザイン的なことが得意な子、発想は良いのだけれど実際につくるのは苦手な子とか、この子は発想力ないけれども言われたことはきっちりできるとか、こちらであまり押し付けず、その子に応じた教育、指導を目指しています。
市長 そうですよね。全国竹工芸展の入賞作品もすごく独創性のある作品が最近、受賞されています。従来の竹工芸展を越えて新しいジャンルを切り開いている。審査員の方が評価をして、伸ばそうとしている姿が伝わってきます。
―お父様の作品も工芸というより現代アート、こういう作家を子どもたちも目指すかもしれないですね。
八木澤 竹工芸教室の子どもさんには、ただ素材を与えておくだけで自由にものをつくってもらうようにしています。やらない子は1年経っても2年経ってもやらないですね。でも、それをだめと言わない。待っているんです。2年間なぜ教室にくるのかというと、楽しいからです。自らやるようになるまで見守って、一緒に楽しんで笑ったり話したりしています。そのうちやるようになります。そうなってくると今度は遊ばないようになります。じーっとやっています。その待つということも大変ですけどね。
―美術教育、芸術教育とは本来、そういうものだと聞きます。
八木澤 本人が自主的に伸びていくよう、受動的ではなく自分から動いていくというように。遊んでいるというのは、実は良いことなんです。
市長 環境の中にいて遊んでいると自然にしみ込んでくるというか。
八木澤 それから入っていってもいいのかなという気がします。
市長 遊んでいるように見えるけれども、その空間の中にいることで自然に視覚から入ってくるもの、あるいは音から入ってくるものを通していろいろなことを体感する。その空間の中での教育効果というものがあると思います。
伝統を継承していく中で研ぎ澄まされた良いものが残っていき、その良いものが伝統として繋がれていくということなのかなという感じがします。
―それぞれの小学校で伝統文化にふれあう機会を設けているのですね。
竹工芸作品1
竹工芸作品2
竹工芸作品2
竹工芸作品3
竹工芸作品椅子
展示会にて
伝統文化を体感する
市長 伝統工芸、伝統文化というものを継承するということで、例えば金丸小学校では隣接する那須神社の奉納舞、太々神楽の舞を子どものうちから学んでいます。両郷小学校でも獅子舞を学んでいます。佐久山小では正浄寺の雅楽、大田原では珍しいのですが、それを学んでいます。また大田原城主が毎年正月に城内で演じさせたという城鍬舞を石上小学校の女子児童が演じています。これがまた可愛いんです。そういうふうにしながら郷土の伝統芸能、伝統文化を継承して自分たちの地域に誇れるものがある、それを舞うことができる、作ることができるということを体感し自信をつけていく、あるいは郷土に誇りを持って欲しい。仲間との連帯が生まれ、先輩後輩の関係ができますから人間関係を学ぶことができる、いろいろな効用があるのかなという感じがします。教育現場で積極的に取り組んでくれています。
あとは巧みの技です。例えばお酒。大田原は県内で一番多い6つの蔵元を持っています。いずれの蔵元も鑑評会等で金賞を獲得するとか高い評価を得ています。それから先ほど話しましたように竹工芸の達人がたくさんいます。八木澤先生をはじめ、その流れの中でたくさんお出でになっています。
その他にもお米作りで日本一になった方がいます。数え上げてみますと巧の技を持った方がけっこういますね。
それと合わせて教育力も高いと思います。お子様を育てるのには非常に環境が良いのかなと思います。治安も比較的良いところです。
観光ということでは、グリーンツーリズムなどを行う「大田原ツーリズム」という組織があります。市が出資した第三セクターで発足してから6年ほど経ちますが、年間約8000人の方が大田原で農家民泊しています。外国の方だったり、国内の都市部のお子さんが来たりということで、今では国のDMO(地域と協同して観光地域作りを行う法人)に指定されています。これも新しい大田原の観光事業の一つになっています。現在、那珂川町馬頭の国登録有形文化財「飯塚家住宅」の宿泊施設化事業に取り組んでいます。
大田原の観光と言えば、古刹でしょうね。最近吉永小百合さんが出演したCMでも紹介された雲巌寺、国の重要文化財に指定されている曹洞宗の禅寺大雄寺があり、それから那須神社があります。
那須神社は歴史を辿れば雲巌寺よりもはるかに古いんです。征夷大将軍の坂上田村麻呂が奥羽征伐のときに那須神社に寄って祈願したと伝えられています。こうしたご縁があって京都清水寺(坂上田村麻呂が建立)の森清範貫主を大田原市の市制60周年の時にお招きした時に揮毫していただいたのが、ここにある「夢」です。森貫主は年末に「今年の漢字一文字」を書かれることで有名な方ですよね。
源義経、頼朝も那須神社に立ち寄っています。頼朝は神社近くで巻狩りをしています。中央政権の勢力が及ぶ北限で東北地方との接点にあった那須地域は、歴史の節目節目で歴史絵巻が繰り拡げられ、その舞台の一つが那須神社だったということです。
雲巌寺の話では、神橋の下を流れる武茂川は砂金が採れて、奈良の大仏の塗金に使われたと言われています。その源流のところに雲巌寺があるというのは、いかに重要な場所であったかということだと思います。
決して日光東照宮のようなきらびやかさはないかもしれませんが、古い歴史を伝える神社やお寺が現に残されている非常に稀な地域なのかも知れません。一瞬にして過去へタイムトラベルできる入口がこの大田原にあるということです。
大雄寺
雲巌寺
那須神社永代々神楽
那須神社獅子舞
―八木澤さんは、どうですか。八木澤さんの工房は観光で見学できるのですか。
八木澤 見学できます。今はインターネットで調べて海外から、フランスやドイツの方が来ています。日光に泊まって竹を見たいということで大田原に来られました。日本の自然というのは海外の方には魅力的なんだろうと思います。それに付随して仏閣があったり古墳があったり、大田原はすごく奥深い土地なので、ぜひそういうものを体感していただきたい。
俳句の好きな方は松尾芭蕉ゆかりの場所がありますし、あじさいの花とか四季折々のものもいろいろ豊富にあります。県北の都といえる大田原にみなさん来ていただきたいですね。
―最後に大田原市の未来、これからの夢、それぞれ想うことがありましたら聞かせてください。
夢を追いかけるまち
八木澤 父はいつも夢を語っていました。私たちが子どものときから「これから海外には、電車の切符を買うように行けるようになるからな」と話していましたが、本当にそうなりました。子どもたちが将来どうなるかというのは我々いつも感じるところです。今は2歳3歳の子がインターネットで自分の好きな情報を探したり、AIスピーカーといって子どもと話ができるようなものがあったり、時代がすごく速く変化しているんですね。
そういう中で反対に、元々日本にある自然の良いものを再確認していこうという時代にもなると思うんです。原点というか、昔からここではどのような暮らしをしてきたのだろうということに思いをめぐらせながら、古き良きものを生かしながら新しいものを生み出し、それをみなさんに発信していければと思っています。
そのときそのときを楽しんで、今ここにいることが素晴らしいことなのだという確認をしていくことが大事なのかなと思いますね。そうすると自然に自分が行きたい方へ向かってくれるという気がします。
子どもたちには自分の好きなことを思い切りやって、知識をもっと広めて、昔の良きものを学んでということをしながら生きていってほしいですね。
対談2
市長 私の場合は市長になって一年も経たないうちに東日本大震災がありましたので、あらゆるものをリニューアルしていく作業が大半だったのですが、やっとここに来て、本庁舎整備が終わって、あと2、3インフラが残っているのですが、それが終わると、いわゆるハードと言われているインフラ整備は終わります。まさにこれからソフトの部分で大田原の良さを探求していけると考えています。ちょっと考え方や行動様式を変えたら市民の皆さんが、「あっ、やっぱり大田原良いところだね」と自然に思えるような仕組みというものを創り出していくことが行政の長としての役割なのかなと思っていまして、それが私の身近な夢ですね。
ちょっと工夫をして今まであったものに磨きをかける、原石に磨きをかける、人に磨きをかける、そして文化に磨きをかけることによって、「何か大田原は魅力的だよね。大田原に行ってみたいね。八木澤さんと会ってお話を聴きたいね」と言われるような魅力発信のできる人々が多く住んでいる地域、また、その中で素晴らしい人たちがどんどん育っていく地域にできたらとの思いがあります。
ソフトの部分の「とうし」、ここでは「投資」ではなく「投思」です。思いを投げ入れる、そうすることによってここに住んでいる人たちの幸せ感がますます高まっていく、まちの魅力が高まっていく、周りから人が寄ってくる、そういう大田原になったら良いなというのがあって、そのために自分もひとつ役割を果たせたらいいかなと思います。
先日、北海道の大樹町というところに行ってきました。これからの公共交通システムは自動運転になることが予想されていますが、大樹町は人口が6000人ほどの町ですが去年から自動運転の試験を実施しているということで視察に行ってきました。自動運転のマイクロバスに乗ってきたのですが、自動運転の社会はもう間近だなということを体感してきました。
もうひとつ大樹町は「宇宙のまち」です。小さい町ですが約30年前から町民全体で宇宙基地をつくるという夢を追いかけてきました。先日、2度の失敗を経て3回目にしてロケットの打ち上げに成功しました。ロケット製作の現場を見させていただきましたが、若手技術者が手作りで次に打ち上げるロケットを製作していました。
まさに夢を追いかけているまちです。我々のところも竹工芸にしても、伝統工芸にしても、最先端の技術にしても、チャレンジをする、そして失敗を許す、そういう気質の中で常に人間性を高めていく。何もしないでじーっとしていてけがをしないようにという人生がいいのか、それとも少々けがしてもいいから少しあばれて、夢に向かって体感する、あれこれ失敗したけど良いものが残ったね、という人生が良いのか。何と言うか、体感の幸せ感というものを味わえる、それでいて失敗したときにはサポートするという地域だったらすごいんじゃないかな。そんなことを考えています。
―きょうは、ありがとうございました。
構成:ビオス編集室(2019年6月7日取材)