アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「BIOS電子版」No.25

多氣山持寶院 長老 伊東永峯、住職 伊東永人-歴史、自然、伝統文化を保持し継承する-

「今から1232年前、日光を開山されたのが勝道上人です。上人が日光を開山するのに14年くらいかかっていますが、その間、弟子である尊鎮法師がこの寺の開山をしました」と話す多氣山持寶院(真言宗智山派)住職、伊東永人さん。父である長老、伊東永峯さんから住職を継いで約7年、若くはつらつとした中に住職としての落ち着いた目が印象的である。

尊鎮法師によって多氣山は弘仁13年(822年)に開山された。寄木造りの不動明王がご本尊であるが、天暦3年(949年)3月28日を選んで、源頼光が多田満仲の子、多田の法眼(円覚上人)に作仏を願い、吉野山中にこもり一刀三礼のもとに彫り上げたと伝えられている。

多氣山不動尊登り口

本堂

1200年の歴史と文化を背負って

天暦3年に元々は丹波の国の鬼退治のために造られたと伝わる不動尊(不動明王)は1950年頃までは60年に1回の御開帳(一般公開)だった。

「60年に1回ですと、拝観できるのは一生に1回くらいです。昭和32年(1957年)に市の調査がありまして大変価値のある仏像であることが確認されました。大きさは1.2メートルで寄木造りです。眼は玉眼っていってガラスを入れた跡がある。たぶん修理したときに入れたことと思いますが、その頃ガラスは大変貴重なものだったのではないでしょうか。宇都宮市の文化財に指定されて、それを機に八朔祭は(旧暦の8月1日から旧9月)の年一回の御開帳となりました」

平安末期に朝廷に東北の蝦夷が反乱を起こした(「前九年の役」)。それを治めるために石山寺の宗円が不動尊を持ってきて討伐の軍が収まる護摩を祈祷したところ無事に収まったと伝えられている。宗円は後に宇都宮城主となったという。

「宗円は下野の守護職を頂き宇都宮に居を構えるようになりました。勝山城(氏家・現さくら市)に不動明王があったのですがお堂が火災にあったということで、どこか奉安するのにふさわしいところはないかと八方手を尽くして探し、多氣山に白羽の矢がたてられた。建武2年旧暦の8月1日こちらにお不動様が遷座してこられたのです。このお山に来られて770~780年の歴史があるわけでございます」と長老が説明。

長老が12歳のときに父親が他界、祖父が持寶院を守ってきたが、大学を卒業する頃は住職のいない寺となっていた。約1200年の歴史ある多氣山を背負い24歳で住職となった。宗円からの不動尊を守り抜いて、65歳で次世代にバトンタッチした。「大変なお寺だったのですが、時代が良かったのかもしれません」

長老 伊東永峯

住職 伊東永人

天然記念物の原生林のある森

多氣山を開山した尊鎮法師の師である勝道上人が開山した日光の社寺は、1999年、世界遺産として登録されている。登録資産は、『8世紀末の日光開山以来、約1200年の歴史を有し、古くから山岳信仰の聖地となり、自然環境と一体となって―――日光山の歴史を現在まで継承(栃木県ホームページ参照)』していることである。日光の「自然環境と一体」の山岳信仰は弟子の尊鎮法師から多氣山にも継承されている。

「私(長老)の子どもの頃は、手つかずの原生林がもっとたくさんありました。太い杉は700年位たっています。杉の木は頭でっかちで足があまり地についていないので、強風が吹くと倒れる危険性があります。近くに日光の杉並木がありますが、宇都宮市内にある太い杉はここくらいかな。山自体が寺叢、寺の森ですね」

昭和32年(1957年)に宇都宮市が植物分布調査をして天然記念物に指定。その時の調査概要が書かれている看板「多氣山持寶院社叢」には、『この多氣山持寶院周辺の森(社叢)は、往時の原始林のおもかげを今日にとどめている市内唯一の場所』と記されている。太古の昔から続く原生林の山は、日本に残るこの地域の貴重な資産である。

「原生林は手入れしない、倒れてもそのまま自然のままです。そのような森は栃木県内では多氣山、益子町の西明寺、佐野市の唐沢山の三か所くらいかな。ここにはシイの木がない。益子の西明寺にはありますが、なぜかというと気温が1℃違う、ここは寒いのです。今は温暖化でそういう意味では植生も変わってきますし、酸性雨で木が枯れてしまう場合もあるのです」。生涯を通して森を見守ってきた長老の話もまた貴重である。

「関東平野が一望できて富士山が見えて日光連山も見える。日の出や夕日を目の当たりにしたりして、山の中を歩いていくと本当に風が気持ちいいんですよ」と日頃から山に親しんでいる住職は話す。

貴重な原生林の生い茂る山

仏教は日本で花開く

「日本に仏教が入ってくる前から根づいていたのが山岳信仰です。やがて神道に転じ山は神の領域、山自体がご神体そのものとなった。日光の二荒山神社もそうです。人が死んだら御霊は山に帰っていくという信仰です。自然崇拝、山岳崇拝がもともと日本にありました。その文化に仏教が入ってきてうまく融合した。仏教はインドで生まれましたが、仏教がこういうかたちで残り花開いたのは世界でもまれです。桜の花が、ばばばっと咲くように日本で花開いたのです」

それを色濃く引き継いだのが真言宗である。日本の山があるところには山岳信仰があり、霊山にはそれぞれの修験道があった。たくさんの山伏がいて政治的に脅威だった時代もあった。関所を通らなくても山伝いに情報網が全国に張り巡らされていた。後に修験道廃止令となり、山伏は真言宗、天台宗、神道に属さなければならないと分けられたなど、京都の醍醐寺で修行を積んだ住職は興味深い話を分かりやすく説明してくれた。

住職から山伏のステータスでもある法螺貝を見せていただく。吹いてもらうと、地の底からとどろくような音色に圧倒された。

「昔は通信に使ったのです。山と山の間で狼煙のように連絡しあうことができました。山伏同士で音の組み合わせで『出発しますよ』とか『着きましたよ』とか。また、法螺貝の音が御釈迦さまの説法と同じという教えがあって、説法にも用いています」

法螺貝の説明をする住職と長老

法螺貝を吹く住職

みんなでシェアしてなんぼのもん

今年も5月18日に修験道の山岳信仰の儀式「多氣山大火渡り祭」が行われた。

「多氣山では山伏の伝統がありませんでしたが、山伏の縁を頂いて修行に身を置いていたので火渡りの儀式も行いたいと思いました。修行は菩提を求めて山の中に入り、悟りを求めて行をする。そこで自然の中に身を置いていろんなことを感じるじゃないですか。感じたことをみんなにシェアできないと独りよがりな自己満足の世界で終わる。修験は『みんなにシェアしてなんぼのもん』というところが根本的にある。自分一人が悟って感じているだけだったら何も始まらない。伝えるのにこの火渡りは言葉がほとんど必要なく、祈りに対する姿勢で、みんなの心意気ですごくわかりやすい祭りです。祈りを神仏に届けるので火渡りへの参加者は他宗教も宗派も問いません」と熱く語る若き住職。世界平和と国土の安穏を柱に祈願するという。

火の熱さは、自然に対する畏敬の念であり、古代から火は自然のありがたいものの反面、恐ろしいものでもある。そして、不動明王も火を背負ってる。

「あの火は不動心、心が定まった状態。お不動様のゆるぎない決心はどんな奴でも救ってやるぞ、と。ゆるぎない決心をした時は、やる気に満ち溢れるじゃないですか。燃えるような情熱の表れがあの炎です。自分の心に手を当てると弱い心もある。めんどくせーなとか。その弱い心もあの炎は焼き尽くす。炎の中に身を置くのは、自分たちの弱い心も焼き尽くしてくれるという意味もあるのです。当然少しは火傷をします。火傷は確かに痛いけれど、心に痛さが滲みて……。例えばご家族を亡くされた心の痛みとか、祈願に来られる方の痛みなどは、こんなもんじゃないだろうなと心に刻めます」

火渡り祭

時代も国も超えた文化芸術

住職の母である故伊東直子さん(女子美術大学出身)は、貴重なマイセンのコレクターであった。そのコレクションを公開する美術館を寺院の境内に開設して地域の文化向上と活性のために役立てようと考えていた。志し半ばにして他界された直子さんの遺志は栃木県立美術館に寄贈というかたちで受け継がれた。美術館から展示会の監修を託された櫻庭美咲さん(武蔵野美術大学講師)は図録のなかで以下のように記している。

『本コレクションの見どころは、初期のシノワーズリー様式彫像の充実した蒐集内容である。とりわけ後者の彫像に関しては、稀少性が高く入手困難であり質的にみてもレベルの高い18世紀ロココの彫像が中心となっている。また、19世紀を代表するイギリス趣味とロイテリッツの彫刻という二大主流も押さえ、20世紀初頭の名彫刻家ショイリッヒ、ベルナー、エッサーの代表作まで網羅するコンパクトにして要所をそらさぬ一貫したみごとな蒐集方針がうかがえる(『華麗なるマイセン磁器 シノワズリーからアール・ヌーヴォーまでMEISSEN』発行:東京新聞/2004年)』。その驚くべき貴重なコレクションは、現在、県立美術館の特設コーナーで展示されている。

「たまたま小さなマイセンを頂いた。日本の江戸時代にドイツではこんな素晴らしいものを作っていたのだと……。収集したマイセンの約200点を調査したら17世紀から20世紀の初めまで揃っていた。全国6か所の美術館で展覧会を開催して栃木に戻ってきました。日本の白磁、伊万里も影響させたマイセンですが、ドイツの人たちも第一次世界大戦の戦火の中をしっかりと守り抜いてきたといわれています。お世話になった県民の方々にお返しさせていただこうとい気持ちで寄贈しました」と長老。栃木県立美術館は貴重なマイセンの宝庫となった。

多氣山不動尊の文化財と天然記念物指定の森を保持し継承していく住職は、「文化はそれぞれの地域性がありますが、心の中のウェイトがすごく大きいと思います。文化財は形だけのものではない。そこの内側にある目に見えないところの文化の大切さに惹かれています」と語る。

時代も国も人種も超えた文化芸術作品の数々。それらは継承していく人たちの努力とエネルギーによって、根底に流れる「世界平和」の祈りとともに、歴史に残る人類の遺産として守られ続けていくのであろう。

『華麗なるマイセン磁器 シノワズリー、ロココからアール・ヌーヴォーまで』発行:東京新聞

多氣山持寶院長老と住職