アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「地域レポート」No.14

秋の田中正造ゆかりの地を歩く~立松和平を偲ぶ仲間の研修会~ -福地光男-

立松和平氏と交流があった仲間達が義人田中正造翁の足跡を辿る研修を楽しみました。田中正造翁が残した数多くの業績については多くの文献がありますが、田中正造全集(1977-1980年、岩波書店、全20巻)に網羅されています。立松氏の曾祖父は生野銀山(兵庫県)から仲間三人と足尾にやってきた坑夫でした。そして足尾銅山の隆盛の中で生き、足尾に住みつきました。ですから、立松氏は子どものころから足尾にはよく行っていました(彼が残したメッセージから)。そうしたことが彼を足尾銅山の鉱毒事件に深く関わる要因だったようです。そして多くの仲間と「足尾に緑を育てる会」を立ち上げ、禿山となった足尾の山々に植林を始め、今年で22年目を迎えました。

2017年9月18日(月)は当初大型台風18号の影響が心配されましたが、実に台風一過の秋晴れというか、夏のような暑さの中、坂原宅に仲間が集いました。坂原辰男さん(田中正造大学事務局長)と高際澄雄さん(谷中村の遺跡を守る会会長)の案内で、午前9時半から午後5時にかけて秋の一日を以下の順番で研修しました。

1:旧栃木縣安蘇郡小中村 農 坂原久平 邸宅(住所:佐野市小中町932)

現在、坂原辰男さんが住んでいる旧邸宅が近々解体されるとのことで、仲間達が解体前に是非とも見学会を企画しよう、というのが今回のそもそもの発端でした。添付した挿図には在りし日の邸宅の様子が描かれていますが、いまでも往時を偲ばせる佇まいでした。邸宅内は数多くの部屋があり、立派な大黒柱が聳え立つようです。二階への階段はそのまま抽き出しがある和箪笥で、解体前に再生されるようです。仲間達は坂原さんの説明に聞き入ると同時に、どこかお宝発見を、という虎視眈々のまなざしでした。仲間の一人は蔵の二階から釣り竿を見つけ出し、坂原さんの許諾の上で大事に持ち帰りました。解体後にも蔵はそのまま残るとの事でした。挿図の英文表記には、“FARMER”とありましたが、単にファーマーではこの佇まいを想起することはないように思えますが、外国に対して、日本の農家はこんなに大きいのだと鼓舞するには良いのかも知れません。

田中正造が撫でていた石

2:義人田中正造翁生誕地墓所(住所:佐野市小中町963-1)

坂原宅の近くの墓所の墓碑には蓑笠姿の田中正造翁が彫られていますが、薄くて識別が困難でした。墓所の入り口の案内には、「正造翁生誕の地である小中村においては、浄蓮寺にある田中家歴代墓所に分骨せず、現在地を県の許可のもとに墓所として定めた。---略---明治32年(1899年)2月4日翁が自作自書した「冬なから啼かねバならぬほとゝきす 雲井の月のさためなけれハ の短歌――――」とあり、この短歌は墓碑に刻まれているようですが、読み取りは困難でした。分骨墓所は公式には5か所とされていますが、坂原さんの話ではもう一か所あるとのことでした。

3:田中正造旧宅(住所:佐野市小中町975)

生誕地墓所の向かい側に旧宅があるが、生憎月曜日は休館日で内部をみることは出来ませんでした。しかし、外から眺める旧宅は立派な佇まいで良く手入れされていました。庭にある柘榴の赤い実が秋の青空に映えていました。

4:佐野市郷土博物館(住所:佐野市大橋町2047)

入り口に凛として立つ田中正造翁の銅像には圧倒される。坂原さんの話ではこの銅像に一つだけ間違いがあるとのクイズが出されましたが、答えは頭部のちょんまげだそうです。当時、ちょんまげは結っていなかった模様です。博物館に入ると田中正造展示室が待ち構えており、様々な展示物があります。大正2年8月2日に庭田家を訪ねたあとで病に伏し、9月4日に亡くなりました。その時の枕元には菅笠と合切袋(信玄袋)があり、袋の中には河川調査の草稿と新約聖書、鼻紙数枚、採取した川海苔、小石3個、帝国憲法とマタイ伝の合本、日記3冊が納められており、それらが展示されていました。聖書を持っていたことは内村鑑三と交流があり、彼の影響でキリスト教に興味を持っていたようです。

5.昼食休憩は佐野ラーメン山銀(住所:佐野市赤坂町984-11)

坂原さんの案内で山銀にてランチ休憩、彼の話では当初は国道沿いの小さな屋台のラーメン屋であったが、その後発展したとの事で、坂原さんの一番好きなラーメン屋さんとのことです。佐野ラーメン独特の青竹打ちのちぢれ麺ですっきりしたスープが美味しかったです。

6.「田中正造翁終焉の地」記念碑(住所:佐野市船津川町1874)

平成29年8月6日(日)に記念碑の除幕式が行われたばかりの記念碑は真新しいもので、翁が命を落とした庭田家が経営する梨の生産直売店の目の前に位置しています。東武鉄道佐野線を左手に見ながら国道7号線を南下すると、目の前に立派な記念碑と梨直売所が見えてきます。庭田さんとは皆顔なじみのようであり、取れたてのみずみずしい梨を沢山ご馳走になりました。

7.庭田家の田中正造翁闘病生活の部屋(住所:佐野市下羽田町16)

庭田家で病に伏し約1ヶ月の闘病生活を送った部屋は、2013年に佐野市の文化財史跡に指定されました。庭田家は記念碑の直ぐ南側に位置し、立派な門構えと大きな踏み石には驚きました。縁側から見える部屋は綺麗に整理されており、田中正造翁がどのような思いで病に伏せていたかを思うと、胸が痛みます。

8.田中正造翁の墓 曹洞宗 雲龍寺(住所:群馬県館林市下早川町1896)

田中正造翁が足尾鉱毒事件闘争の本部としたところで、明治33年2月13日雲龍寺に結集した鉱毒被害民約二千数百名が途中の群馬県川俣で警察隊と衝突し多くの負傷者、逮捕者が出ました。その後、逮捕者は被告として訴えられ、その「足尾鉱毒被告の碑」が境内にあります。その碑には、正造の歌「毒流すわるさ止めずバ我やまず渡良瀬利根に血を流すとも」と詠まれています。また、墓の他に「現在を救え、ありのままを救え」とう正造の病床の言葉にちなんだ救現堂があります。山門の正面には渡良瀬川の堤防があり、そのうえからは筑波山を始め眺望が開けています。ところで、山門の右手に「禁葷酒」と彫られた石碑がありました。酒好きな仲間は、「これは禁酒するなかれ」という意味であろうと勝手に理解しましたが、帰宅後真ん中の字を調べたところ。草カンムリに軍の字は、「くん」と読むらしく、その意味は「ねぎやにら等のにおいの強い菜、肉料理など生臭いもの」とありました。禁酒は勿論のこと、このように匂いの強い肉野菜もいけない、という禅寺の戒めである、という理解が正しいようです。

9.田中霊祠(住所:栃木市藤岡町藤岡)

田中正造翁を祀った神社です。5分骨された遺骨の一つは、旧谷中村残留民18戸のうち渡良瀬川河道掘削工事で生じた土砂積み上げ地に移った6戸が、この霊祠に祀られた分骨を守り抜いてきたようです。霊祠建造に寄進した人々のお名前が霊祠に掲げられていますが、その筆頭には黒澤酉蔵氏のお名前があります。彼は田中正造翁の秘書を務め、鉱毒反対運動を進めたようです。北海道に渡りその後の雪印乳業を創業しました。酪農学園大学初代理事長を務め、「県土健民」という田中翁の思想を組む言葉を残したそうです。分骨葬が神式で行われるため、霊祠には鳥居があり、毎年4月第1日曜日の例祭日には神官が祝詞を奏上しているそうです。また、境内には正造の歌碑以外に大物右翼の頭山満の碑もあります。彼は田中正造翁の生き様に感銘を受けたとのことです。碑には頭山満の揮毫で「義気堂々貴白虹」とあります。ある時の例祭に右翼が暴れに来た時に、この碑を見てすごすごと退散したとのことです。また入り口には大鹿卓撰文の巨大な石碑が立っています。研修会ではこのあたりから後半の説明は、坂原さんから高際さんへ案内役がバトンタッチされました。

10.旧谷中村合同慰霊碑(住所:栃木市藤岡町内野)

渡良瀬遊水地の北エントランスの直ぐわき、堤防と道路との間に合同慰霊碑があります。昭和46年4月に旧谷中村子孫の要望で建設省が遊水地内に散在していた無縁墓地などを移転しました。古いものは元禄年間の墓石もあり、額に十字が刻まれた墓石もありました。原爆の悲劇を描いた丸木画伯は合同慰霊碑のコンクリートの壁にはめ込まれたこれらの墓石を見て、「これでは死者が磔になっている」と叫んだとのことでした。確かに、日本の墓石はそれぞれが単独で立っているのが当たり前であり、壁のレリーフのように壁に並べて埋め込まれているものはありません。あたかも最近の都心のビルの地下などに並べてある光景を思い出しました。慰霊碑の直ぐわきの堤防からは遊水地内の旧谷中村のあったヨシ原が見えました。この辺りは6500年前近くまで東京湾が迫っていました。いわゆる縄文海進と呼ばれる現象で、近くの貝塚からはシジミとともに、カキやアサリが出ています。その後海が後退し、広大な湿地ができました。ここがやがて谷中村となりました。

11.旧谷中村役場跡(場所:北エントランスから遊水地内に入る)

役場跡は周辺より高く盛り土してあり、度重なる洪水対策が成されていた証拠である。その周辺には木々が茂っています。周辺を見渡すと、葦の原のところどころに木々が茂る高台があり、それらが昔の集落の跡のようです。この高台は水塚と呼ばれ、洪水時に人々が住む家(水屋)が建てられていました。度重なる洪水水害から身を守る住民の知恵の結集です。

谷中村役場は初代村長の大野孫右衛門の水屋が使われました。2015年9月の大雨で、現在の東屋の椅子より上まで水が来たことが記されていました。

ここから後の研修には、高際さんの説明に聞き入った道すがらの二人がついてきました。

水塚

旧谷中村役場・大野孫右衛門屋敷跡

12.岩波家屋敷跡(場所:遊水地内)

岩波家は、谷中村で最古の家で、鎌倉時代に宮城の古川から朝正が谷中村に家を建て、この場所を古川と呼びました。隣の岩波分家の岩波彦市はロマンの人で、自分の家に下女にきていた少女に恋をし、その後古河の遊女として売られたが身請けし、妻として迎え入れた。その妻お藤さんは3年後に肺結核で彦市の膝の上で亡くなりました。谷中村には夢を追う人が少なくありませんでした。谷中村が豊かな村であった証拠と考えられます。

13.雷電神社跡(場所:遊水地内)

旧谷中村には村民が参拝した雷電神社があったが、今は神社跡の高台に、その石碑が残されているだけです。

田中正造はこの社を、青年と谷中村の復活を話し合う場とし、庭田家で病気療養していた時、担架に乗せて雷電神社に戻してくれとしきりに頼んだといいます。谷中村の復活こそ田中正造が最晩年に目指した目標でした。

14.延命院跡、墓地跡(場所:遊水地内)

ここには旧谷中村の延命院にあったと思われる墓石が今でも複数残っています。墓石が丸いものは延命院の住職の墓のようです。周囲には曼殊沙華が燃え盛るように咲いていました。この曼殊沙華を見に来る人々が多いようで、ここには「谷中村の遺跡を守る会」の掲示があり、アンケートを回収すると同時に「谷中村たより」を配布しています。そのたよりには数多くアンケートが掲載されており、皆等しく田中正造翁の足跡に感銘しているようです。

この延命院共同墓地は、1972年8月、谷中湖の造成のために破壊されようになり、水野勝作さんがブルドーザーに立ちはだかって、守りました。その後1年をかけて、谷中村の遺跡を守る会、藤岡町、建設省が話し合い、延命院共同墓地などの谷中村遺跡が、史跡保全ゾーンとして守られ、谷中湖がハート形となりました。

14.「鉱毒悲歌」の撮影現場?

仲間の一人である谷博之さんは立松氏らとともに撮影に走り回ったようです。鉱毒悲歌の映画(Youtube)の中には泥濘の葦の原を歩く様子が写し出されています。おそらく12、13、14のあたりを歩いたものと思います。その同じ場所を歩いているかと思うと感無量です。

午前9時半に坂原家に集合した仲間達は、午後5時に渡良瀬遊水地内の駐車場で散会しました。坂原さんと高際さんのお二人の案内に深く感謝の一日でした。そして、義人田中正造翁の足跡の一部を大急ぎで辿る充実した研修でした。

旧谷中村図(拡大)

全体マップ(拡大)

田中正造足跡(拡大)

写真撮影:戸崎嘉博

2017年9月18日(月)

福地光男(ふくち みつお)

福地光男(ふくち みつお)

1947(昭和22)年、栃木県生まれ

水産学博士、北海道大学大学院水産学研究科博士課程修了

現職:国立極地研究所名誉教授、総合研究大学院大学名誉教授

   国立極地研究所特任教授、北海道大学特任教授

   オーストラリア・タスマニア大学客員教授

専門:極域海洋生態学

著書

『南極の科学』7.生物(分担執筆、国立極地研究所、東京プレス)、『南極海に生きる動物プランクトン-地球環境の変動を探る-』福地光男,谷村 篤,髙橋邦夫 共著/極地研ライブラリー/発行所:㈱成山堂書店、『南極色彩魚拓図録』長瀬望秋 色彩魚拓制作/福地光男,ハービー・ジェイ・マーチャント 編著/発行所:テラパブ、他。