アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「地域レポート」No.17

―放射能に汚染された草の根などを食べるしかない。助かったと思っても放射能で死ぬ、栄養失調で死ぬ、水だってない、まさに地獄でした―
元「栃木県原爆被害者協議会」会長 中村 明さんに聞く
聞き手『鉱毒悲歌』制作委員会 代表 谷 博之さん

谷 博之さん

中村 明さん

8月9日11時2分

 中村さんとは長いお付き合いをさせていただいてまいりました。そんな過去を振り返りながら今日はいろいろなことをお伺いしたいと思います。

昭和20年(1945年)に広島、長崎に原爆が投下されて、その後たくさんの被爆された方が犠牲になったり傷ついたわけですが、そういう痛ましい過去の歴史を踏まえながら、73年経ちます。今日までそれぞれ活動されてきた方々と一緒に僕らもいろいろな活動してきましたが、そんなことを踏まえながら中村さんに何点かお話をお聞きしたいと思っています。

ひとつは中村さんは長崎のご出身ですね。昭和20年8月9日の長崎でどういう状態で被爆されたのかご自身の体験をお話していただければと思います。よろしくお願いします。

中村 私は14歳10ヶ月のときに原爆の被害にあい、大きな痛手を受けたのですが、私は昭和20年(1945年)4月に三菱製鋼の技師養成学校に入って、月水金は学校で勉強し、火木土は現場で仕事をするために学校と工場へ交互に通っていました。勉強と仕事を一生懸命しながら「国のために生産を高めなければならない」と頑張っていました。

原爆が投下された8月9日は木曜日で現場実習の日でしたから軍需工場の機械工場に従事していたのです。工場は爆心地から1.2キロ離れていましたが、学校は爆心地から500メートル内くらいのところにあったので、一日違いで私は命が助かったのです。11時2分のことです。長崎は湾があって盆地になっていた。両方を山に囲まれていてその中の浦上川の川のほとりに軍需工場がありました。浦上川で物を運ぶ利便性があったのですね。

 資料を見ると造船場のほうがひどかったようですが、湾の反対側ですか?浦上天主堂や長崎大学があるほうに落ちたんですよね。

中村 浦上地区に軍需工場を年々広げていって大きな工場だった。何を生産していたかというと、500キロの爆弾を作るとか、戦車の部品を作るとか、魚雷を作るとか、そういう仕事を毎日していたのです。

 11時2分のときはどんな状態だったんですか。

中村 工場にいて昼食の準備をしようと、若い者4、5人で弁当を取りに行こうと集まった途端、パァーと光った。「これは何事だ」と、何も分からず四方八方に逃げた。とにかく工場から逃げ出そうとしたときに、爆風で工場の中に戻され、同時に爆風で工場が破壊されて私は飛ばされました。下のほうで女の子の「お母さん助けてー」という声を聞きながら飛ばされていってそのまま意識を失いました。意識が回復したのが夕方、稲佐山に太陽が沈む頃に目が覚めたら鉄骨の瓦礫にはまっていた。周囲が火事の中でとにかく必死で助けを呼ぶと、工場の指導者が私の声を聞いて駆けつけて瓦礫をどけてくれた。その人に負ぶわれて逃げました。途中で足に激痛が走り耐え難い痛みに苦しみ「殺してくれ、ここで死んでもいい」って泣いたら、「ばかすけ!」って、連れ出してくれたのです。

その晩は周囲に怪我人がごろごろいて、夜になるとアメリカの艦載機が飛来し、浦上地区に焼夷弾は落とすわ、爆弾は落とすわ、めったうち。私は思うように動いて身を隠すことができなかったが、手だけは動いたので頭を覆うしかなかった。ほんとにすさまじい戦場だった。周囲の住宅も学校も全部燃えて、三菱は鉄骨でできた工場ですから鉄骨部分は残りましたが、事務所はまる焼けでした。夜は逃げ延びてきた人たちが工場の中で埋まるようにしていましたが、その人たちの断末魔が今でも頭にこびりついて離れません。多くの人が一晩中うなっていたのですが、朝にその声は聞こえなくなり亡くなられました。その方たちを助けられる人がいなかったですね。朝、道が消火されて通れるようになったので兄が私を探しに来ました。私の家族を知っていた指導員が「中村さんの家族はいませんか」と一緒に探してくれて兄に会うことができました。兄は造船所にいましたが、川を泳いで岸についたようです。兄と再会して救護所に行きましたが、包帯ひとつもない、飲み薬も付け薬もない、なにもないのです。ただ行っただけ、集まっただけです。もちろん医者もいない、「これが救護所か」と思いましたね。担架に載せられて自宅まで帰りました。

母が私たちを待っていてくれました。父親は町内会の警護団の団長をしていて炊き出しの準備などのために家から1キロくらい離れた場所で被爆しました。そこでは父以外は全員亡くなったそうです。父は全身に火傷していて防空壕に入っていました。小さな防空壕だったので担架を入れて父を出すのは無理だったので、そのまま露営生活を送るしかなかったですね。10日の夜に母親がしくしく泣いていたので「親父が亡くなったのかな」と思ったらそうだったんですね。

原爆投下範囲の地図のある自宅資料部屋で

生き残ったのは奇跡

 「二次被爆」といわれ、投下直後に救助する人が被爆して亡くなるケースがありましたけれど、その後は15日の終戦を迎えても今お話しいただいた状態が続くわけですね。

中村 8月15日に母がどうしても私を大きな病院に連れて行って診てもらいたいと言って、兄が近所の人に頼んで長崎医科大学に運んでもらいました。大学病院に行くとロータリーに人が枕を並べて寝ていた。放射線にやられてガスがたまって顔が3倍くらいに膨れていて、男か女か年齢もわからない。すでに亡くなっている人もいました。亡くなった人は焼き場なんてないからトラックに載せられてほいほい投げ捨てられるように運ばれていました。

 若い時に本当に大変悲惨な体験をしましたね。しかも一瞬で、まさかという出来事でしたね。

中村 その頃「原子爆弾」なんて日本国民は分からないから「新型爆弾」と呼んでいました。近所の助かったと思った人が、翌日には亡くなるということが毎日のように続きました。高台から下を見るとあちこちで毎日煙が上がります。家族が木を集めて荼毘に付していくんです。私の親父も兄貴が木を集めて荼毘しました。

父を荼毘に付した後には、姉が行方不明で帰ってこなかったので、母は疲れ果てて痩せ細ってね、毎日泣いて泣きくたびれて座ったまま9月18日に亡くなりました。周りの人達もみんな放射線で白血球が破壊されて斑点が全身に出て死にました。血を流して死んでしまうんです。母の亡くなった前日の17日には台風がきて、私たちは屋根もない露営でしたから、すごい雨風の中で着るものもないし大変な生活でした。食べ物もない、配給もないですから。草の根を掘り出してかじって食べて生きていました。何とか畑を作った人は筋芋ができると掘って食べましたが、畑の中も放射線が浸透していますからね。もうみんな放射能に汚染された草の根などを食べるしかない。助かったと思っても放射能で死ぬ、栄養失調で死ぬ、水だってない、まさに地獄でした。

 本当に大変な体験でしたね。その後「三菱製鋼」に務められるのですか?

中村 私は足がやられてしまったので、どこで足を治すかと病院を探していました。佐賀県に嬉野海軍病院がありました。嬉野は私の両親の生まれたところで、お茶所であり温泉地です。温泉治療で治していこうと送ってもらいました。海軍病院で検査してもらったら、白血球が普通は3500/µL(マイクロリットル)から多い人で8000/µLくらいありますが、私は500/µLしかなかった。足の治療をしようとしてもメスを入れたら出血が止まらない。赤血球と白血球のバランスで人間の血液は働いてますから諦めました。翌年の二月まで温泉治療していました。親戚も火傷して嬉野に帰ってきました。嬉野温泉で、薬がなくても温泉でそんなに治るのかと思うほど、ただれた火傷のあとが綺麗に治ったのです。

私は昭和21年(1946年)の7月1日に「三菱製鋼」に復帰しました。杖ついてちまちま歩いていると、向こうから先輩が来て「おう中村か、よく助かったな。また一緒に働こう」と。

被爆者にも遠距離被爆者、入市被爆者、直接被爆者など段階ありますが、私は大怪我をしながらもどうして生き残ったのか、本当に奇跡だと思います。生き残った人はみんな奇跡的です。私と12歳違う兄は80歳で亡くなりました。4人兄弟で妹はいま長崎にいますが原爆病で大変苦しんでいます。

戦争の犠牲になった先輩たちの慰霊碑を守り続ける

 中村さんが栃木県に来られて被団協(栃木原爆被害者協議会)の関わりがでてくるのですが、どのような経過でしたか?

中村 昭和38年(1963年)に宇都宮に工場ができるということで宇都宮に来たのです。私の他に被爆した方が4、5人一緒に来ました。被爆者の集まりがあるという話を耳にしたので保健所にいくと、被爆者が集まっていて「会に入りませんか」と。すぐに入りました。保健所の出会いがなかったら入ってなかったかな?当時の被団協は広島と長崎あわせてメンバーは400人位いました。私のように家族を3人も亡くし瓦礫に埋まって大怪我をしながらもどうにか生き残ったことなどを思うと、誰を恨んでいいかも分からず、何かを勝ち取っていかなければ、団体に入って運動していかなければという気持ちになりました。

 ちょうどあのころは被爆者援護法を作ろうとみんなでやりましたね。私もたまたま事務局員で宇都宮大学の大崎六郎先生と関わりもたせて貰ったことがありまして、被爆者のみなさんの世界大会を広島、長崎で開いていらっしゃるときに一緒に行ったりしましたので経過もよく知ってるのですが、あの時代は今の制度と違って被爆者の皆さんに対する援護措置がほとんどなかったですからね。

中村 村山富市総理のときに援護法ができた。爆心地の人しか対象にならなかったりで実質的な援護法じゃない不満があったがしかたがないと思いました。今は被団協の会員も減少して全国で14、5万人くらいしかいません。主に高齢化で会員が減少したのですが、5月には栃木県の被団協も解散しました。決断が大変だった。励まされて解散は伸ばしてきましたが、被爆者の語り部もいなくなりましたから。

 毎年行っている慰霊祭はいつ頃からはじめたのですか?

中村 平成3年からですから今年で28回目です。

 慰霊碑を作るときに大崎六郎さんら先輩の方々が骨を折ってくれて、広島の方に向いた慰霊碑を作りましたね。毎年原爆で犠牲になった栃木県在住者とのつながりを結び付けてくれるのがあの慰霊祭だったと思います。

中村 被団協が解散しても慰霊碑を捨てるわけに行かない。「魂」を入れて作ってもらっていますから。いろいろ問題はあるかもしれませんが、先輩たちが戦争の犠牲になったってことを根本に考えて守り続けてほしいと願っています。

 それはぜひ我々も同じ思いですから、皆さんと協力し合って頑張って残していきたいと思っています。世界的に平和を求めて核に対する抑止や核をなくしていこうという動きがある一方でまだ世界中に核がある戦争の危機もある。そういうなかでICANのノーベル平和賞の受賞は象徴的だと思いますが。

中村 去年ICANがノーベル平和賞をとって日本被団協は誇りにしていました。被団協から2名の方が授賞式に参加し一緒に喜びを分かち合いましたが、被爆国日本で平和を叫んできた被爆者である当事者が賞をもらえない点では不満でもあります。

 栃木県で公害の原点と言われている足尾の過去の記録を45年前に『鉱毒悲歌』という記録映画に残しましたが、映画の最後のナレーションに人類の最大の公害は核問題だというまとめで結論しました。完全に抑止できないけれど誰かが「核のない世界」を目指して言い続けないとなりません。それをしてきたのが被団協でありICANだと思います。

原子力の平和利用ということで、昭和30年(1955年)代に日本で原子力発電がスタート、それが電力に繋がっていくという面もありますが、核の使い方によって人類の破滅につながる、そこをみんなで認識しそれを誰かが言い続けないと悲惨な危険な道にいってしまうと思います。

中村 そうですね。誰かが叫び続けないと悲惨な歴史が繰り返されます。

 今日は中村さんに大変つらい体験をお伺いしましたが、多くの方々に知っていただき共有できればと思います。貴重なお話を本当にありがとうございました。

中村 こちらこそ、今日はありがとうございました。私も元気なうちはどこへでも行って被爆の体験を語り伝えていきたいと思っています。