アートセンターサカモト 
栃木文化社 BIOS編集室

「地域レポート」No.30

宇都宮空襲の犠牲児童、中央小前で追悼 戦後81年の夏

太平洋戦争での宇都宮空襲から81年となった2026年(令和8)7月12日、元ピースうつのみや代表の田中一紀さんが空襲で投下目標となった宇都宮市立中央小学校の校門前で、空襲で犠牲となった児童らを追悼した。宇都宮空襲では犠牲者の1割以上の73人が児童だった。判明している空襲犠牲者の氏名も読み上げた。ピースうつのみやは25年11月に解散しているが、平和への願いを次世代に継承したいという思いを持ち続ける田中さんは個人の行動として協力者と相談しながら、今後の具体的な活動方法を模索している。

宇都宮市中心部を「平和を学ぶゾーン」にしたいと訴える田中さん

犠牲児童73人、中央小は投下目標だった

戦後81年の夏は、戦争体験者の高齢化・減少で戦争体験をどう語り継いでいくかという大きな課題に直面している。

特に宇都宮市にとって、1945年(昭和20)7月12日の宇都宮空襲の記録と記憶は戦争と平和を考える上で大きなテーマだ。市街地の大半を焼失し、620人以上の市民が犠牲となった。

ピースうつのみやは解散したが、反戦平和の思いを変わらず持ち続けている田中さん。個人として、できることは小さくても活動していく意向だ。特に、これからを生きる小学生には宇都宮空襲の歴史をしっかり教える機会を持つべきだと考えている。

『栃木県史』によると、宇都宮空襲での児童の犠牲者は73人。ピースうつのみやが開催してきた空襲展でも、この事実を伝えてきた。

こうした歴史を市内小学校の副読本に掲載し、学校で慰霊の場を設けるなど、81年前の宇都宮空襲を児童たちにより具体的に、分かりやすい形で示すことが必要と考えている。宇都宮市教育委員会にも、その意向を伝えている。

田中さん(右)と協力した鎌田さん夫妻

判明している207人の犠牲者氏名

7月12日午前、わずかな小雨の下、田中さんは中央小学校の校門前で、宇都宮空襲の犠牲者・犠牲児童に対する追悼文を読み上げた。ピースうつのみやは解散したが、「やり残したこと、明らかにすべきこと、もう少し追求したいという気持ちが残っていた」という。

ピースうつのみやで共に活動し、「灯篭流し」では照明造形作家としての本領を発揮してきた鎌田泰二さんも田中さんの行動に関心を寄せる。

追悼文は「次世代を担ってきたであろう児童生徒さんらの若い方たちの犠牲に対して」思いをはせ、「二度と同じ過ちを起こさせないためにも戦争をやめさせ、平和な社会づくりに大人も子どもも男女の別なく手をつなぎ進んでいきましょう」と訴えた。

続いて、宇都宮市が1996年(平成8)4月1日に告示した「平和都市宣言」や日本国憲法の前文と第9条、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)憲章前文、さらに、宇都宮空襲犠牲者のうち判明している207人の氏名を読み上げた。

小雨の中、宇都宮大空襲の犠牲者名を読み上げた

40年間の活動は幕を閉じたが…

田中さんは戦後40年の1985年(昭和60)、仲間と共に市民団体「宇都宮平和祈念館建設準備会」を立ち上げ、宇都宮空襲展を始めた。その後、準備会は「宇都宮平和祈念館をつくる会」、「ピースうつのみや」と名称を変えながら、毎年夏の宇都宮空襲展を継続。コロナ禍の中断を経て2022年(令和4)夏、36回目の空襲展を開催した。

空襲展のほか、戦跡、関連史跡を巡る「ピースバス」、空襲犠牲者を追悼する「灯籠流し」、空襲体験者による語り継ぎなど平和を追求する活動を展開。市民による手作りの平和運動だった。

だが、長年活動してきたメンバーは高齢化。資料を県や他団体に引継ぎ、25年11月にピースうつのみやは解散した。長年、求め続けた平和祈念館は実現しないままの解散だが、田中さんは宇都宮市中心部を平和ゾーンとして整備することを望んでいる。

宇都宮空襲の投下目標だった中央小学校、黒焦げになりながらも翌年に新芽を芽吹き、復興の象徴となった大イチョウ、壁に空襲時の焼け跡が黒く残るカトリック松が峰教会、「つくる会」製作の銘板、枝病院門柱戦災記念碑がある藤田医院など、歩いて回れる範囲内に残る戦争関連の史跡、既存施設を利用することで平和ゾーンを整備しようという構想だ。

「ピースうつのみやによって掘り起こされた歴史だ。宇都宮市中心部を平和ゾーンという位置付けにすれば、街づくりにも役立つし、1カ所だけよりも理解が深まる。個人個人が描く平和への願いがいろいろな角度から表現されれば良い」

田中さん自身も体力的にも不安を抱え、「大それたことはできない」というが、これまでに宇都宮市や教育委員会に提言してきたこともある。次世代がどう取り組むか、今後の動きに注目している。

中央小学校の前でパネルを掲げた田中さん

【中央小学校前で読んだ追悼文全文】

1945年(昭和20年)7月12日夜半、小雨降る中、米軍B-29爆撃機115機は23時19分、宇都宮市立中央国民学校(現中央小学校)を爆弾の投下目標にして集束焼夷弾1万2704個、約803トン、集束焼夷弾の中にあった小型弾M69の個数に換算すると約10万個が投下されました。

当時の宇都宮の人口約9万人を上回る焼夷弾が宇都宮市街地、宇都宮市民に襲い掛かってきました。地上4000メートルから4500メートルの上空より空襲され、終わったのは翌朝1時39分頃までの2時間20分に及びました。

この一度の空襲で宇都宮市民の犠牲者は620人以上とされていますが、この中に宇都宮中央小学校をはじめ、市内10校の児童73人も死亡し、37人もの負傷者が出ました。この中央小学校でも7人の死亡者と7人の負傷者があったことが『栃木県史』や宇都宮市の記録に残されています。

こうした事実に基づき、宇都宮市民の犠牲者の方々、特に次世代を担ってきたであろう児童生徒さんらの若い方たちの犠牲に対して本日81周忌を迎えるにあたり、また、宇都宮市制130年、戦後81年と新しい節目に、二度と同じ過ちを起こさせないためにも「戦争」をやめさせ、平和な社会づくりに大人も子どもも男女の別なく手をつなぎ進んでいきましょう。心から哀悼の意を表します。

2026年(令和8年)7月12日 田中一紀