アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「ナイジェリアの太陽」No.21(最終回)

別れの日

結局、この北ナイジェリアに通算4年半滞在した。以前書いたように10ヶ月滞在し2ヶ月の休暇でフランスに帰国するというサイクルで過ごしてきたが、夫の仕事がいよいよここで終了ということが決まり嬉しかった。苦労していろいろな事があって、ここまで生きてこられたこともありほっとした。しかし、この地ともお別れと思ったら、さまざまな思い出がよみがえり愛着が出てきた。

フランス人居住者たちとの最後のパーティが行なわれたり、ポツポツと同僚たちが帰国したり、引越しの支度中もあり、何かとせわしいときでもあった。

私の提案で、夫の現地の部下10人をお別れの食事に招待した。メインは代表的なナイジェリア料理で鳥のアフリカソース煮である。鳥肉をトマト、玉ねぎ、オクラ、クサヤで煮込むのだが、これらは現地で一年中手に入る食材であった。この料理は私が覚えた唯一のナイジェリア料理でもある。ボーイと一緒に買出しに行き、ビールや米も沢山買った。夕方私の家の周りに村の人たち、老人、若者、子供たちが沢山集まり遠巻きに地面に座りこんでいた。なぜ、みんながいるのか私には意味が分らなかったが、後に分かったことだが、ここでパーティーがある事を聞きつけた村人が、おこぼれにありつこうということだった。台所の小さな窓からふとどき者が入り込んで料理を盗もうとするのを、ボーイが棒切れで窓から追い出していた。

招待者はみなよそいきの服装でやってきた。彼らは大きなラジオを持参し、アフリカの音楽を大音量で流していた。ビールを飲み、鳥料理を嬉しそうに食べてくれた。彼らはお祭りのようにリズミカルに踊っておしゃべりしたりしながら楽しんだ。

彼らのリーダーが北ナイジェリアの首都カノからカメラマンを呼んできていた。私たちとの最後の日に記念の写真を撮影したいということだった。外国人女性と一緒に、しかもホームパーティーの席で写真を撮ることなど生涯ないだろうということで、全員が私と一緒写真を撮りたいということだった。今になってみれば、とても貴重な写真となった。

パーティーの終わり頃に気付いたのだが、なんと、みんなの紙皿にはほんのひとつかみだが、ご飯や鳥の皮や骨が残されていた。後ほど分かったのだが、これは外に座り込んでいた人たちのためであった。彼たちはパーティが終わる頃、外にいる人たちに残しておいたものをあげていた。少しでも分け合う精神が村の中にあることを感心して見ていた。しかし、これがすごい取り合いになってびっくり、アフリカに生きる彼たちの現実の厳しさを再び知らされた別れの日であった。

その後、夫の仕事はインドネシアのジャカルタに移ったのであった。

(おわり)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。現在、ミレー友好協会パリ本部事務局長。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。