アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「おもしろ日本美術3」No.11

自然界から取材(図取り)の懐中のデータベース―崋山先生蟄居中愛用の写生冊「翎毛・虫魚冊」―

翎毛虫魚冊

翎毛虫魚冊

翎毛虫魚冊

自然界からの図取りとでもいうべき、自らのスケッチ帖等からの図柄を本画に用いた例として特筆されるのは、蟄居中愛用の写生冊「翎毛虫魚冊(二冊)」の諸図の積極的な利用である。明確に判定できるだけでも、「虫魚帖」「海錯図」「渓澗野雉図」「洋大図」等の主だった代表作が指摘でき、また「黄雀窺蜘蛛図」もその可能性は大であろう。

そもそも、「翎毛虫魚冊」とは、「翎毛冊」と「虫魚冊」の二冊本であり、紺紙の表紙には、それぞれ「翎毛 全楽堂本[印](「全楽堂」朱文長方印)」「虫魚 全楽堂本[印]」の崋山自筆のタイトル書きが記され、間に九十枚程度の雁皮紙を袋とじして、ほぼその三十丁程度までに崋山の秀抜なスケッチが描かれている。両冊の図中に記された年紀は明らかに並行しており、また、「翎毛冊」に魚や昆虫がはいったり、「虫魚冊」にサギがはいり込んだりと一部混在し、蘭やキビ、ざくろ、きのこなどの植物も飛び込んできている。即ち、最初は分類の気持があって描きだしたものであろうが、そのうちあまりこだわらずに並行して描き込むこととなったのであろう。蟄居の見舞に崋山のもとへ持たらされたものや、近隣で採収されたもの、ふと眼にとまったものなどを真摯で、かつ愛情深い眼差しをもって活写している。

最初の年紀は、「虫魚冊」巻頭の「戊戊四月七日」、即ち天保九年(一八三八)崋山四十六歳、まだ讒訴を蒙る前である。これよりこのスケッチ冊の描き始めをほぼこの頃と想定してよいであろう。このあと年紀は、「戊戊九月廿四日」「庚子八月」(天保十一年)「庚子九月」「庚子九月十二日」「九月十三日」「十月八日」「十月廿一日」「辛丑二月十四日」(天保十二年)「辛丑二月十九日」「二月廿日」「二月廿八日」「八月朔」「八月廿二日」と拾える。天保十年四十七歳のスケッチがなく、翌十一年八月になってやっと再開されているが、この空白がまさに、罪をかぶって揚屋入りをし、その後の蟄居生活でも病気のため依然スケッチどころではなかった崋山の苦悩の時と一致して胸打たれる気がする。動植物のそれぞれの品種に対する注記も、時に驚くほど詳しく、「本草綱目」「福州府志」「和名抄」等を参照して、漢名、和名、俗名、方言その他を生物学的に細かく記している。

画面は、それぞれの冊子の見開き中央に大きく対象を捕え、さらにその余白に主要郁分のクローズアップを添えたり、また、何通りか別の角度から捕え直してみたりと、その描写態度自体も崋山の気まじめさがでている。下あたりの線が見えないばかりか、ほぼ最初の線で的確なデッサンがなされている点はさすがであろう。線描きの用筆は、穂先が良くきき且つ腰の柔軟な上質の筆と思われるが、カミソリの刃のような細い厳しい線描で巧みに形態が捕えられている。これに絶妙の淡彩を施して立体的なふくらみまで感じさせ、まさにリアリズムの極致を示している。魚のうろこの表現におけるタンポの布目を巧みに利用した手法も見逃せない。対象に向かう真摯で学究的な崋山の態度が、どのスケッチからも彷彿されて小気味よい。

なお本帖と相前後して制作された同種のスケッチ冊としては、表紙に「天保戊戊十一月廿一日全楽堂」とある「客坐掌記」が知られている(捕われの身となって後田原へ檻送される道中の様子を書き止め、さらに田原蟄居中のスケッチをこれに続けている)。また、この「翎毛虫魚冊」の描法に最も近いものの一つとして、南海の熱帯魚を写生した「異魚図」がある。これは画中に「異魚不知其名、我郷南海所捕、鈴木春山持贈、形似妨魚無円暈、或娼魚一種欺、土人云味甘平無毒 庚子十一月朔六日」と記して、春山の持参した珍魚を、蟄居中の崋山が早速写生したものとわかる。

崋山花烏画の名品、重要文化財「虫魚帖」は、巻末図中に、「作虫魚十二頁以此図終之、蓋元明己来忌俗不作事、見駒陰冗記諸書、然其為霊人用不如亀、何忌之有 時丁酉八月晦 全楽道人[印]」とあり、天保八年(一八三七)の制作と主張している。しかしながら、椿山宛の崋山尺牘中の「御約の草虫書畫共二十四葉出来差出候」とはじまり、諸図のタイトルも列挙しての詳細な記事より、例にもれず蟄居中の身を憚って干支を遡らせたものとして、天保十二年八月末に完成されたと判断できる。なお、その手紙の中で崋山は、「先画の封をきらぬ前にとくと御考、私いかヾ認候哉と御思惟こうでもあろうと、一枚一枚に題を見て内を御披き可被下候、下の居る処にては御無用、御独見を願う所也」とすこぶる謙遜しながらもまた自信の程をのぞかせている。また「虫魚帖」の稿本とみられる画稿も知られており、双方合わせてこの、「翎毛虫魚冊」と較べてみると、実に顕著なその図柄の関連が指摘できる。

すなわち、「竹枝窠幕図」のクモ、「猪芽絡緯図」のコオロギ、椎茸、「筐桑夜蠢図」の桑葉を食む蚕とこれをうかがう鼠、「越瓜拒斧図」のカマキリ、「秋草金鐘図」の鈴虫、「贅藍喧軸図」の中のトリ貝と牡蠣、「古柳馬嫡図」の蝉、「洗手露艇図」のシオカラトンボ、「晴池橋竜図」のアカ蛙と小蛙、「寒塘曝亀図」の子亀――等々、それらのほぼ大部分が対応し、「翎毛虫魚冊」から「虫魚帖」へといった密接な親子関係が明らかである。

また、「海錯図」は、図中に「甲午秋月戯写 崋山外史」との款記こそあるが、天保十一年十一月末頃のものとされる崋山から椿山に宛てた書簡「絵事御返事」に「海錯図は海魚深海中に遊水するの体を認め、先ず古人も不画所也、浪に少々古風を加え魚の赤鬣、青魚、梭魚、鰮丁をあしらい申候」とある記事と一致し、意識的に過去の千支を用いた蟄居中の作品と思われる。中央五匹の魚はそれぞれ躍動感こそ感じられるが、タイ、サバ、カマスなど、「翎毛虫魚冊」のスケッチを抜き出し、画中に組み合せて水中遊泳の体を与えようと試みた作画情況が明らかである。

「渓澗野堆図」については、若竹の図様が明らかに「虫魚冊」の半ばあたりに描かれた筍のスケッチから出ており、雀の描写も同様である。水飲の雉子等その大要は、幕府の医官真瀬家所蔵の明の呉維翰の大作からヒントを得たものと言われる。

鈴木與兵衛旧蔵の「洋犬図」(錦心図譜第三四七図)は、「随安居士」落款で、明らかに蟄居後の作品であるが、その母犬のデッサンが、「翎毛冊」の最後尾に細い線で描かれたクロッキーによるものであることが明らかである。文晁の作品に倣って以前に描いた「乳犬図」のモチーフを実写生に基いて改めて絵画化したものであろう。

(文星芸術大学 上野 憲示)

虫魚帖

海錯図

渓澗野雉図

上野 憲示(うえの けんじ)

上野 憲示(うえの けんじ)

1948年、大阪生まれ。

東京大学文学部美術史学科卒業。栃木県立美術館学芸員。東京大学、清泉女子大学などの非常勤講師(美術史学・博物館学担当)を経て、現在、文星芸術大学学長ならびに芸術理論専攻教授。美術史家、美術評論家として活躍。

著書

『鳥獣人物戯画(日本絵巻大成六)』(中央公論社)、『渡辺崋山の写生帖』(グラフィック社)、『ハイビジョン鳥獣人物戯画』(ハイビジョンミュージアム推進協議会)、おもしろ日本美術1(文星芸術大学出版)、KAKIEMON おもしろ日本美術2(文星芸術大学出版)、他。