アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「電子版パリ通信」No.59

ジャーナリスト(ニュース、オンライン、プレスTV主管)、元ボリショイ・モスクワバレリーナ、画家-Jean Manian【ジャン・マニアン】-

数年前に出会ったフランス人ジャーナリスト、ジャン・マニアンとは何かと話があう良き友人の一人である。彼の名の最後にアンがつく。その名はアルメニア人に多いのだが、やはり両親がアルメニア人で彼はシリアの首都ダマスコで生まれた。両親も彼もフランス国籍でパリならではの人種の混ざりあいである(筆者も日本人だがフランス国籍)。しかし、地中海を挟んだフランスからはシリアまでひとっ飛びという地形なので、昔から交流や戦いの歴史があった国で「知らない仲」ではない関係といえる。

フランス委任統治領だったシリア

1920年フランス対シリア戦争が勃発した。シリア・アラブ軍とフランス軍の衝突、当時のシリア国王ファイサル1世は逃れ、その後イラク王国の王になった。

1940年ドイツによるフランス陥落によりシリアは1941年にイギリス軍と自由フランス軍に1946年まで占領された。ヴィシー政権(1940~1944年、ドイツ軍のフランス侵攻でフランスが敗北し、ドイツの支配下の元にフランスの中部の町ヴィシーに首都を置いた)統治下にも置かれたが、1946年に独立。この様な状況の中でジャンの家族はフランス人としてパリで生活していたのだった。

「私の父は当時フランス軍の大佐としてド・ゴール将軍に仕えていました。式典騎乗の写真などが残されています。父がシリアにフランス軍の大佐として赴いた時に私や兄弟たちがダマスコで生まれました。家族も周囲の人々もフランス語が共通語でしたが、私は両親の母国語であるアルメニア語とシリアのアラブ語も学んでいました」。アルメニア人は多言語話者が多いと言われているが、地続きのヨーロッパ・中近東ではどこの国にでも幾つもの言語を話す人たちがいる。

「7歳から私はクラシックバレエを習いました。自分のやりたい事を両親に言った時2人共とても喜んでくれたのを覚えています。ダマスコにボリショイ・バレエスクールがあり入学しました。ロシア人のナターシャという素晴らしい先生に付いてバレー技術とロシア文化を学んだのです。20歳で奨学試験に合格し、それで本家のモスクワのボリショイ・バレエに入りさらに特訓を受けました。しかし、若いときにクラシックだけでなく民族舞踊も修得しました。クラシックバレエ、民族舞踊、オペレッタ等で団体を作り、ヨーロッパ中を公演しました」

ジャンの父(大尉の時代/左)

ジャンの父(右)と友人家族

興味ある映像の仕事で世界中を回る

「30歳近くなった時ダンサーとしての身体の限界を感じました。それは、前は回転(トウシューズのつま先を立てて回る)が何回もできたのに、以前ほど回ることができなくなったり、自分の体重より重いバレリーナを上まで持ち上げたりすることに身体の負担を感じ始めたのです」

1980年頃に、彼はBBC(イギリス通信社)の仕事でルポ・映像ジャーナリストとしてアラブ首長国連邦を取り上げ、中近東戦争をオリエンタルTVやパリのANN(A News Network 1996-98年)CVS( Concurrent Versions System 1990-2004年)でルポ・ジャーナリストとして個性豊かな手腕を発揮。同時にTV映画の第一助監督(フランスTV2チャンネルで第一助監督82-84年)の仕事に就く。特に84~88年のマルセイユの第3チャンネルTV映画の監督ジャン・ダスク監督の下で手がけた(第一助監督)映画「黄金の羊」は84年のカンヌ映画祭の受賞作となった。その後、自らTV映像制作社を立ち上げた。「その間に9個の資格を取りましたよ」

彼は南フランスの学校とパリのIDHEC(仏国立映像音響学院。ここは世界映画学校ランキングによると、アメリカを含めて2014年は3位、という仏国内外を問わず多数の優秀な映画人を輩出している)で学ぶ。様々な国や出会った人々を通して世界の動きに関心を持ち問題や矛盾を感じたジャンの姿が見えるようだ。

「中近東の戦場からアフリカの戦場、そしてアジアまで、問題のある国々に行って取材しました。それはジャーナリストとしての好奇心ですね。それは脳の為でもありますね」

危険とはいつも隣合わせ、命の保証のない国際ジャーナリストである。

「しかし3つのリフレッシュで大丈夫です。第一は『道』。蛇のように見えず、聞こえずとも体からの電波や感覚そして舌で全て判るように、危険な道や人を知ることです。第二は『食事』に気をつけることです。菜食にして、しかもビオ栽培のものを食べるように心掛けます。しかし未だに完全なビオ食品はできていません。第三は『枕で寝る』ことです。これは脳の位置を安定するところに置き、睡眠中も正常な働きをさせることです。つまり『最善の注意をして生きる』ということです」となにやら哲学的な話になってきた。

絵のモチーフは花が多い。それも画面にぎっしり描かれている。「花は女性を表しています。私は花を扱うように女性に接します。シャツも花のモチーフが多いですが、やはり女性に囲まれていたいのでしょうね」と。元ダンサー特有の美的感性でさらりと語る。

エッフェル塔の下でパフォーマンス

エッフェル塔を背景にパフォーマンス

フランスTVの2チャンネル。

第1助監督時代のジャン(左/1982-84年)

ビオ食物で身体を維持

彼のプロフィールからも、様々な分野で活躍してきた自由人のように思えるが、インタビューをしてみると彼の現在の一番の関心ごとは食物のようである。

菜食主義は生まれた時からと答えるかれに少し驚いたが、「両親とも菜食者なので私も自然に菜食の生活になったわけです。乳児の時は母の母乳だけで育ったそうです」

66歳の年齢にしては無駄な脂肪は一切ついていない。「でも、ダンサーの職業病で膝が少し痛みますが、あとは元気です。しかし、私は睡眠時間も短く1~1時間半だけです。子供の時もやはり寝ないので親によく怒られましたよ。7~8時間も寝るなんて『生ける屍』 と同じですよ」と驚異の生活を平然と話す。

彼は何回も日本を訪れている「日本びいき」である。「特に田舎の農家の人たちはとても親切ですね。子どもたちも正直で、私に好奇心あふれる顔で近づいて来るので、すぐに仲良くなれます」

彼の意見では完全なビオ野菜がまだできていないのが現実だと話す。沢山のビオ野菜やビオ食品の店は増えているのだが完全なビオ野菜はできていないと断言。

「一番いいのは土地を2000℃で焼くことです。こうすれば全ての不自然な化学肥料が燃え尽き、新しい土に生まれ変わります。そのような所では作る人も近代的なラボに入るように、完全に自分の体も雑菌を野菜に移さないように密封しなければなりません。また、例えばニンジン等の根菜は根を土に残すことで、全て採ってしまわないということです。殺してはならないのです」と、彼のビオ野菜作りの話を熱心に語るが、しかし「私はリアリストだ」と何回か念を押して言った。次の日本に関してのルポは「ベジタリアン(菜食者)」や「学生の貧困」など取り上げたいと意欲的である。

今年の7月には日本で「スカイツリー」のルポを行っているが、その際に富士登山をしているので感想を伺うと、「5時間ほどで山頂に着きましたが、感じたのは静けさの中の自然の力の素晴らしさと命など、ここにはそれらの全てが存在しているということでした。下山は3時間ほどでしたよ」と。

来週はコニャック地方(フランス南西部)のルポを予定している。その後台湾へ向かうという忙しさでいつも世界を飛び回っている。

「トモコと一緒に次回の日本のルポを行ってみたいですね。是非一緒に行きましょう」と、自信にあふれた穏やかな笑顔の彼と握手をして取材を終えた。

大好きな日本での旅

日本らしい風景に感激

富士山5号目の看板の前で

シリアは世界的にも歴史の古い土地で古代オリエント時代においてもメソポタミャ・アッシリア・バビロニア・ギリシア・ローマ・ビザンチン帝国と支配者がめまぐるしく変わり、さらにイスラム世界のウマイヤ朝・アッバース朝・セルジューク朝、モンゴルのイル汗国・オスマン帝国と列強の争いの舞台となるなど人類史の縮図とも言われる。

TOMOKO K. OBER(パリ在住/画家)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

TOMOKO KAZAMA OBER(トモコ カザマ オベール)

1975年に渡仏しパリに在住。76年、Henri・OBER氏と結婚、フランス国籍を取得。以降、フランスを中心にヨーロッパで創作活動を展開する。その間、78年~82年の5年間、夫の仕事の関係でナイジェリアに在住、大自然とアフリカ民族の文化のなかで独自の創作活動を行う。82年以降のパリ在住後もヨーロッパ、アメリカ、日本の各都市で作品を発表。

主な受賞

93年、第14回Salon des Amis de Grez【現代絵画賞】受賞。94年、Les Amis de J.F .Millet au Carrousel du Louvre【フォンテンヌブロー市長賞】受賞。2000年、フランス・ジュンヌビリエ市2000年特別芸術展<現代芸術賞>受賞。日仏ミレー友好協会日本支部展(日本)招待作家として大阪市立美術館・富山市立美術館・名古屋市立美術館における展示会にて<最優秀審査賞>受賞。09年、モルドヴァ共和国ヴィエンナーレ・インターナショナル・オブ・モルドヴァにて<グランプリ(大賞)>受賞、共和国から受賞式典・晩餐会に招待される。作品は国立美術館に収蔵された。15年、NAC(在仏日本人会アーティストクラブ)主催展示会にて<パリ日本文化会館・館長賞>受賞。他。