アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.124

秋田名物 ~キリタンポと芋の子汁~

ちょっとは知られた『秋田音頭』は軽快な秋田民謡である。秋田名物、八森ハタハタ、男鹿で男鹿ブリコ(アーソレソレ)、能代春慶、桧山納豆、大館曲げわっぱ…。だが年末のハタハタ漁は低迷、男鹿半島の海岸に打ち寄せる卵の塊「ブリコ」も減った。ブリコは人が拾って食うと捕まるが、カモメどもは腹一杯ついばんでもお構いなしだ。

が、しかし、現在の秋田名物はキリタンポが断トツである。広い秋田県でキリタンポを食してきたのは県北や秋田市で、私の故郷である由利本荘など県南では食う習慣がなかった。北秋田市出身の妻と一緒になった当初、この季節に「今夜は鍋だ」というとキリタンポだった。鍋は里芋の「芋の子汁」が当たり前だった私は驚いたものである。

新米の頃に出回るキリタンポはもち米ではなく、ふだん食べるうるち米で、妻の作り方はこうだ。飯を杉の棒の先端から包むように下の方へ巻きつけ、ホットプレートで焦げ目をつける。味付けは鶏、長ネギ、マイタケ、セリが基本。砂糖を混ぜた味噌をつけて焼く「味噌タンポ」もうまい。うちの子4人にとって古里の味といえばキリタンポである。米を煮て食う料理に違和感があった私もだいぶ飼いならされてしまった。

キリタンポといえば比内地鶏。比内鶏は天然記念物なので食えばブリコ同様に罰せられる。そのため米国産のロードアイランド種と交配して生まれたのが比内『地鶏』。秋田県知事は先ごろ比内地鶏を「高い、硬い」と評し、「あの硬さがいいのだ」と非難を浴びた。この鶏の飼育には細かい規定があり、放し飼いが基本だが、そのため養鶏場は熊に襲われやすい。今年も数回やられ、「高い、硬いに熊被害も入れてくれ」とぼやく養鶏家がいた。

一方の里芋。県南の「芋の子汁」の味付けはキリタンポとほぼ同じ。鍋の芋の子が減るとキリタンポを入れて食う地域もある。芋煮会が盛んな隣の山形県では鶏ではなく牛肉で、カレールーとうどんを入れて〆るそうだが、真似してみるとやっぱり比内地鶏がいい。 2022/10/15

草生津(くそうづ)川のコスモス(秋田市内の油田から流れ出た石油の臭いから名づけられた)

秋田米の新品種「サキホコレ」

寒風山のススキ(男鹿市)

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。