アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.130

手術の話 ~心房細動とアブレーション~

能登地震や羽田空港事故の正月頃、頭を左下に寝ると不規則な心音が続くことに気付いた。うちの心電計で調べたら心房細動である。他に自覚症状はない。4月中旬、長女の勧めで心臓の状態をチェックできるアップルウォッチを買った。こいつもエラそうに「心房細動」と表示する。

近所の循環器科を受診し持続性心房細動と確定した。心臓は心房が発する電気信号で規則正しく動き、血液もスムーズに流れているが、余計な発信源(病巣)ができて拍動が乱れると血の塊・血栓ができやすい。血栓が脳の血管を塞ぐと脳梗塞となる。予防のため血液サラサラの抗凝固剤が処方され、心臓カテーテルで病巣を除去するアブレーション手術を目的に総合病院を紹介された。自覚症状がない心房細動は健診や脳梗塞発症などで偶然見つかることが多い。

4月末に紹介先を受診した。病状を説明した医師は予約が混んでいるため8月末入院と決め、看護師はコーヒーと煙草と酒は控えて下さいと指導する。私は週2回のテニスやジムなど週4万歩台とよく運動し、ストレスはともかく、毎年の健診も花丸で生活習慣病もない。こんな私に節酒・禁煙・節コーヒーとはむごい話である。

よせばいいのに月1回連載の地元紙フリーペーパーに顛末を書いたら反応が続々。「埼玉で通っていた医者はアブレーションに反対だった」「40歳でやってあそこ(尿道)に管(フォーレ)を入れられたのがショック。再発しても絶対やらないわ」「脳梗塞で右半身マヒの親父は心房細動が原因といわれて初めて知った」「5年毎の発作性心房細動になって10年だが、大学同期の循環器医はあと3、4回発作をしのいで80歳になれば薬で充分。アブレーションは急ぐなという」訳が分からない。

パリ・パラリンピック開会式の日に入院した。病院9階の病室は大平山を真正面に臨む。医師から明日の施術、成功率と再発率、再手術の可能性、術中事故などあらゆる想定の説明を受け、それでも手術を受けるとサイン。午後は種々の検査後、陰毛の上半分を剃られた。胸に心電図モニター、腕に点滴で身動きままならず、夕食後は眠れず明け方まで『日本の歴史・王朝の貴族』を読む。

 2日目、オペ当日。両下肢に塞栓予防の弾性ストッキング、カテーテル挿入口の左腕と右股関節に除痛パッチ。最も恐れていた尿道フォーレの挿入。恥ずかしい。痛い。痛くない訳がない。術後安静のためとはいえ他に手はないのか。車いすで術場へ。大勢のスタッフが一斉に動き出し、心臓の焼き過ぎ監視に鼻から食道へ温度計挿入。今回は全身麻酔ではなく痛みにモルヒネ点滴のため大量に使うと術後に記憶が残らないという。

マスクとキャップの医師3名は手術台後方にいて私には見えない。やがてカテーテルが血管に入る痛みを感じた。ややあって心臓に灼熱と激痛が走る。うなると看護師がモルヒネを増やし、うとうとしては灼熱痛、これを数回繰り返し、やがて術場の空気が和らいだ。正午前に病室へ戻り絶対安静。意識清明。1時間毎に種々チャック、3時に寝返りは許可されたが、点滴と心電図モニターとフォーレで窮屈極まりなく本を読むしかない。

3日目の朝8時。フォーレは一瞬チクッとしてあっさり抜去され、ついで若い医師から説明があった。病巣は消滅し心電図も洞調律に戻ったが、期外収縮が多く薬は継続、術後1週間は激しい運動禁という。その夜も眠れず『王朝と貴族』を読了して4日目の朝を迎えた。日曜で職員が少なく会計はできず、迎えの家内と9時半に退院。帰宅して腕につけたアップルウォッチは「心房細動」から「洞調律」へ表示が替わっていた。

大人しく暮らして術後17日目、久々にテニスクラブへ顔を出した。会員らの邪魔にならぬようプレーし、夜の打ち上げも用心深く2次会途中で帰宅9時。ウオッチは「洞調律」である。翌日曜朝7時、インドアテニスを開始後30分、念のためウォッチのボタンを押すと、えっ「心房細動」!

80歳の仲間が「俺は12年前にやって3カ月で再発した。2回目は断って今も薬を飲んでテニスだ」という。ある友人は語る。「胃腸の内視鏡検査や治療は病巣を直に見て処置する。アブレーションは大体の見当をつけて心臓の一部を焼く。私は1回目の後、焼く場所が少しずれていたといわれ、2回目は焼きが足りなかったといわれ結局3回やった。ディスプレイだけ見てやるオペは多分ゲーム感覚だね。やる側は楽しそうだが…」

西馬音内盆踊り(秋田県羽後町8月18日)

今年の第15回で終了となった一日市盆踊り前夜祭のサンバパレードとステージ(秋田県八郎潟8月17日)

男鹿半島、門前の「ゴジラ岩」

9月の男鹿半島・鵜ノ埼海岸

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。