アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.18

逆カルチャーショック ~内なる黒船~

幕末に到来した黒船は日本にカルチャーショックを与えた。戦艦の大きさ、軍服、高慢な要求など、異国のすべてに日本人は衝撃を受けた。鎌倉時代の元寇も同様だった。武士は戦う前に「我こそは何の誰それである!」と名乗るのが礼儀だったが、そんな習慣がない元の兵士たちは、アホかと笑いながら矢を射かけてくる。武士たちは困惑した。

いずれも30代で、急にイライラする、自分が自分ではないような、居場所がないような気がする、人と話していてもどこかピンと来ないという患者3人を同時期に診たことがある。症状の他に仕事や留学で3年から5年間の海外経験があるのも共通していた。そこで一人に、カルチャーショックが続いていないだろうかと言ってみた。彼は驚き、外国に着いてちょっとの間は感じたが、むしろ適応は早かった方だという。

カルチャーショックとは、異文化に触れ、習慣や文化の極端な違いに衝撃を受けることである。一方、先の3人のように、帰国後、今まで馴染んでいたはずの生活に、何か変だと違和感を覚えるのが逆カルチャーショックで、国内外を問わず長期滞在から帰国した人に見られる。

ある友人は美大卒後、アフリカ象牙海岸国に留学した。アビジャン空港を出ると砂糖に群がる蟻のように真っ黒い現地人に取り囲まれた。みなピンク色の手を差し出して何かわめいている。その後の詳細はともかく、1年後に帰国した彼は、日中は自室にこもり、夜は車でさ迷うという生活を3年続けた。20数年後、親の会社が傾き、銀行など債権者との交渉中に父親は急逝、長男の彼が苦難の道を継ぐ。「夜逃げしてもおかしくないあの状況を乗り切れたのは、アフリカ体験のお陰」と彼は回想する。

いわば「内なる黒船」を抱えた3人も、逆カルチャーショックをバネに人間が一回り成長するかもしれない。もっとも、若いころ4か月ほど海外を放浪した私は今なおピンボケのままだ。

八郎潟町浦城にて

診察机の状況

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。