アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.25

豪雪狂騒曲 ~秋田に小正月行事が多いわけ~

4車線道路はブルドーザーが作った雪の山で3車線に化け、住宅街の小路は車の交叉もままならない今冬の秋田。警笛を鳴らしても道を譲らぬ対向車に路線バスは迂回路を走るしかなく、寒い停車場で待つ人々に渦巻く呪詛の声。除雪予算は底をつき、住民の声高な苦情に行政はヤケを起こし、はかどらない作業に除雪隊も気が立っている。近所のヤクルト小母さんはブルドーザーに軽乗用車をはじき飛ばされ、怒り心頭だ。

交通手段が健脚と馬ソリだけの時代はこうではなかった。すべからく車社会のせいである。車は人をせっかちにし、寛容を忘れさせ、不平不満の雪だるまに変えてしまった。

「私には関係ありませんわ」こんなご婦人が正月明けの外来でニコニコしている。だってそうでしょ、私は定年から10年で通勤がない、夫は高齢で車をやめたから雪かきは玄関だけ、屋根が平らな小さな家に建て替えたら雪はまず積もらない、老犬も寒いと外に出たがらない、買い物は宅配…。

次に受診したご婦人はちょっと事情が違う。10年前、息子の結婚と孫の誕生に備えて100坪の家を新築した。が、ありがちな話で、結婚した息子の嫁は家風が合わないと息子と孫を連れて家を出てしまった。頭にきて眠れなくなったのがそもそもの受診理由だが、そのうち夫は認知症で施設に入り、今や一人暮らし。この雪、どうしてくれよう…。

私「どうせ子供は東京から帰ってこないと家も土地も売り払い、雪深い里から秋田市内のマンションに移り住む人もいます。お宅は田舎町のど真ん中で敷地も広い。いっそご近所の皆さんでマンションを建てたらいかが?」

患者「そんなことが簡単にできたら苦労ないわ。嫁はうちの不動産を狙っているし、第一、ボケた夫に金を貸すお人好しがどこにいますか。先生、あまりトボケたことは言わないで!」

分け入っても分け入っても白い山。とにかく、秋田はいま殺気立っている。ガス抜き?の魅力的な小正月行事が多い理由だ。

角館の火ぶり

藤田嗣治 秋田の行事から 梵天

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。