アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.26

医師の抵抗 ~在宅死が難しい時代~

知人の女医の親90才がある朝、ベッドで冷たくなっていた。寝乱れた様子はない。骨折で3カ月入院、退院後2週目で、やや衰弱していた。近くの医師に電話で死亡診断を頼んだら、このご時世だから警察を呼べと言う。連絡したら彼女の医院にサイレンを鳴らしてパトカーが3台も現れ、近所は朝から大騒ぎ。

往診している在宅患者も2日ほど診察していないと死体検案が必要と私たちは教わった。実際は柔軟に対応してきたが、この例のように最近当局の介入が増え、危ない患者を抱えた家族は、あとが面倒だからと在宅の看取りを嫌い、最期は病院でという傾向である。

これでは医療費が高くつく。慌てた厚労省から、24時間以内の診察がなくても不審な点がなければ死亡診断書は発行できると通達が届く。そうは言っても警察が認めている訳ではない。人が死んだら殺人か、殺人でないかを捜査するのが彼らの仕事で、彼女も母親も別々の部屋で事情聴取を受けた。業務とは言え、その尋問口調に唖然…。

数年前に福島県で、最後は無罪となったが、出産に複雑な病的事情が絡んで命を落とした人がいた。1年以上も経ってから主治医が手錠にお縄の無残な姿で、大勢の病院職員と患者が驚く中、病院からパトカーで連行された。こんな国のやり方が関係者に衝撃を与え、一時期、産科医を目指す医学生が激減したことで有名な事件である。

医療行為に求められるのは、最善の結果ではなく、最善の努力、ということになっている。結果が全てのプロスポーツ選手や、王様の治療に失敗したら首をはねられる時代の医師とは事情が違うのだが、「診療行為に伴う予期しない死亡を異状死に含める」という法医学会の指針が事態をややこしくした。

「娘が医師でも親の死因を疑ってパトカー3台もよこすなんて」と彼女は憤る。「人はうっかり自宅で死ねない。在宅医療の推進を言いながら国が足を引っ張る気なら、夜のコンビニ受診の鼻風邪さんも、バイオテロ疑いでパトカー呼ぶわ!」世知辛い世の中だ。

柴灯祭り(2月8日~10日)なまはげになる前の男たち

勢ぞろいしたなまはげ50匹

地域ごとに顔の違うなまはげ

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。