アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.31

楽しく飲める理由 ~団体交渉と録音機~

四半世紀前のある年度末、某公立病院で人事異動が内示され、騒動になった。新しい町長が、選挙を応援した病院の労組幹部らを特別昇進させ、そのあおりを食らった精神科病棟の男性看護師が町営老人施設に、看護職ではなく、一般職として異動という内容だったからである。

本人は衝撃を受け、同僚たちも私の上司である精神科科長も怒った。医局で他の科の医師らに事情を話すと、精神科なんてヒマそうだから、その男、サボって左遷じゃないのと素気ない。将来有望なまじめ人間だ、そもそも精神科がヒマとはけしからんと反論、説得に努め、この人事の撤回を求める文書に医師全員の署名を得た。首謀者は県の辞令で1か月後に転勤する私である。

署名を携え団体交渉に臨む。相手は総務部長と病院事務長、何事にも反応が鈍い昼行灯院長、うろたえる総師長。頼みもしないのに「面白い」と私より先に会議室に乗り込んだ内科科長は、いい加減な連中だから録音しておこうと言う。私は医局のテレビの上にあったウオークマンの埃をはらい、大テーブルの真ん中にそっと置き、メモ帳を出した。

結果は上々で、精神科はヒマだとのたまった内科医が熱弁をふるい、町側は異動を取り消した。ところでこの交渉、例えば私が部長に何か質問すると彼の目線は私にではなく録音機に向く。気がつくと質問も回答も全員が録音機に向かって喋っていた。

待ち構えていた病棟の職員たちは寿司屋を予約していた。録音を肴に一杯やろうという訳で、趣味が悪い。が、残念ながら録音機には電池もテープも入っていなかった。だからこれしかないとメモをヒラヒラさせたが、「今さら病院のメンツでもないでしょ。隠しちゃダメ」と私を責める。

録音機の故障を確認して、「ひどい…でも素敵なペテン師!」と叫んだおば様はのち総師長に、件の看護師も病棟師長になって病院の経営改善に貢献した。武家屋敷で有名なその街で私が今でも大きな顔で飲めるのは、こうした事情による。

きょう始まった竿灯

ハートインクリニックのねむの木

千秋公園お堀のハスが満開

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。