アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.36

ナニジン? ~多文化共生の時代~

先日、由利本荘市カダーレ(一緒に入れ、という意味の秋田弁)で「多文化共生推進セミナー」が開かれた。演者は2人。1人は秋田大学院卒後オーストラリアの大学に留学し、そのまま棲みつき同国の女性と結婚して38年になる高校同級の須藤公也君。豪州地球物理探査学会会長である。一方のモリス氏は豪州の大学を出て東北大に留学、「仙台美人」と結婚し教員として日本に住んで38年と、ちょうど逆の関係だ。

秋田にも韓国、フィリピン女性が増えている。「彼女らは日本の女性が嫌がる境遇の男性と結婚」するために来日したとモリス氏は指摘し、息子は顔がハーフのためガイジンとよばれ中学まで喧嘩ばかりしていた、私の母国の高校に進んだら「ナニジン?」と問われたことが一度もないと言い、須藤も豪州で国籍を問われることはまずないと頷く。豪州は1901年に連邦制を導入し、白人中心の単一民族国家をめざしたが、1972年に白豪主義を廃止した。移民による犯罪増加の懸念は、健全なコミュニティ、多文化共生で払拭できようとの判断もあったらしい。

数年前に秋田県PTA連合会で印象的な講演があった。講師は、私のいう通りに書いて下さいと述べ、「まる、さんかく、てん」と言った。周りを見ると「○△・」、「丸三角点」、丸の中に三角と点を描いたものなど多彩だった。自分の意図がいかに相手に伝わらないかを研究するのがコミュニケーション学と講師は総括したが、実際、古いしきたりや偏見、言葉の不便によるストレス性疾患でアジア女性が私のクリニックを時々受診する。

医師になって間もないころ、担当していた患者が服薬中断で幻覚妄想が再燃し入院した。「ちゃんと薬を飲んでいればよかったのに、バカだなあ」と私が言った瞬間、彼は椅子を蹴って「バカとはなんだ!」と怒った。あの状態で冗談は通じないと上司に注意されたが、病的な警戒状態にある人は日本文化の中のガイジンに似ている。コミュニケーションの限界をわきまえつつ、冗談が通じる豪州型の多文化共生社会をめざす時期であろう。

企画したNPO法人矢島フォーラム太田良行理事長

モリス氏と須藤公也氏

由利本荘市文化交流館カダーレ

「串焼き一平」に高校同期ら10名

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。