アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.47

大駱駝艦 ~踊りの尻の位置~

10月に秋田市文化会館で麿赤兒主宰の大駱駝艦公演「灰の人」があった。人気の麿氏に著名舞踏団とあって超満員だったが、これも「国文祭あきた2014」という国家事業のおかげである。全身の白粉、厳粛と滑稽とスリリングな舞台に興奮し立ち上がって拍手する客もいた。

会場地階では暗黒舞踏の先駆者とされる秋田出身の舞踏家「土方巽」展も開かれていて、土方の一文が目を引いた。「西洋のバレエはトゥシューズによって肉体のバランスの危機を作るが、素足の舞踏では肉体そのもので危機を作り出す」といった内容である。靴を履いたバレエの危機とは片脚立ちで、それが演技者の姿態を美しく見せる。一方、日本の舞踊や手踊りはそもそも素足や二の腕は見せない。土方はこれらに対し、日本人特有の肉体に新たなダンスの基盤を創ろうとした。

1981年5月、宇都宮のライブハウス仮面館で「彼岸の舞踏者たち」と銘打ち、下田誠二、ギリヤーク尼ケ崎、遊夜による3夜連続公演を企画したことがある。彼らは足元をゆらゆらさせながら徐々に肉体を解放し、床をのたうち、けいれんし、ついには肌着も脱ぎ捨ててしまった。最終日に我々スタッフは、「三日三晩オチンチン見ちゃった」と嘆息したものである。

今年9月の秋田県能代市「おなごりフェステバル」でまた浅草カーニバル・サンバの裏方を務めた。興奮の嵐が吹き荒れる中、写真担当の若い女性が言う。「ブラジルと日本のダンサーではお尻の高さが全然違いますね。私はやっぱり浴衣で盆踊りかな」。体格の違いはいかんともし難い。土方も弟子の麿氏もその辺が出発点だったのだろう。確かに日本人にはどじょう掬いやモッコ担ぎが似合う。私の周囲には酒席で手踊りや男の願人踊り、時に(暗黒)舞踏を披露する女性もいるが、お座敷にはぴったりで、要は胸騒ぎの腰つきなのだ。

それにつけてもサンバダンサー11名勢ぞろいは壮観。しかも数名は秋田の盆踊り大会で入賞までした。尻上がりの活躍と体格の大和撫子が明日の日本をリードしてくれるか、師走の総選挙。

大駱駝艦パンフ

藤方巽展パンフ

能代おなごりサンバダンサー

サンバとすれ違う仙台すずめ踊りの一団は気もそぞろ

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。