アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.51

津波てんでんこ ~逃げる猫を見習う~

まだ雪が残る2月半ば、私が校医をしている近所の羽城中学校(潟上市)からすぐ裏の高台にある元木山公園までジオン(チワワ3歳)と歩いてみた。およそ9分。4年前にこの学校では同じルートで2回の避難訓練を行った。最初は校庭に生徒を集め一斉に元木山へ向かわせたら6分半。次は校内放送で避難を指示し好き勝手にさせたら5分弱。1分半もの違いに教師らは驚いたという。

4年前の3.11大震災。宮城県石巻市のある学校では校庭に生徒を整列させるなど対応に手間取り被害を広げた。一方、岩手県釜石市のある学校では集合などせず「てんでんこ」に避難させほぼ全員が助かった。この話から羽城中学校では震災後まもなく、「てんでんこ」の効用を実証したのである。学校保健会でこの話を聞いた私は大いに頼もしく思ったものだ。

古代ローマでもわが国の戦国時代でも、戦争は兵士を整然と配置する陣形を取ってから行った。だが負けそうになると「蜘蛛の子を“散らす”ように」てんでんばらばらに逃げるのが昔から一般的だったようである。もっとも「殿(しんがり)を務める」という言葉があるように、軍隊の最後尾で敵から味方を守る任務も存在したことから、退却の方が難しい局面も多かったに違いない。

少し意味は違うかもしれないが、天皇と皇太子が同じ飛行機に乗らないのは、万が一の場合に血脈を守るためと聞く。だが昔から叫ばれている首都機能の移転が実現しないのは、万一のことがあっても政治家や官僚の代わりならいくらでもいると皆が考えているからだろう。

東京大空襲で被災し、「秋田の方が安全だから」といわれて帰った実家の秋田市土崎でまた空襲にあい、「今風に言えば米軍はストーカーだった。私は運の悪い女」という老婦人がいた。生きているのだから不運でもなさそうだが、三十六計逃げるにしかずとは言え、退脚や避難の見極めは難しい。何はともあれ、魚を盗んで一目散に逃げる猫の姿が一番スマートのような気がする。

元木山公園登り口(向こうに羽城中)

公園登り口の標識

ジオン君特訓中

出戸浜海岸から羽城中まで約5Km

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。