アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.52

ドローンと「どろん」 ~技術進歩の光と影~

小型無人機ドローンは、蜂がぶんぶん飛ぶ音から名づけられたと聞くが、日本で「どろん」といえば忍者や詐欺師、都合が悪くなった有名人が姿をくらますときの擬音である。ドローンは日本で1万台以上普及というから、日本上空はさしずめハチャトリアン作曲の「くまん蜂の飛行」状態らしい。

2年前に亡くなった米国の作家トム・クランシーの「米中開戦」では、米軍がアフガンで偵察や攻撃など軍事目的で飛ばすドローンが中国のハッカーに乗っ取られ、味方が大損害を蒙る。GPSと同じで、もともと軍事目的だったこの機器も民生用に解放され、最近は災害現場の空撮や、いずれは遠隔地など不便な場所への物品搬送に威力を発揮するはずである。その生産がコピー大国の中国企業が世界トップというから皮肉である。

4月からNHKラジオのカルチャーラジオで医学の歴史物語「人は人をどう癒してきたか」という講座が始まった(*)。それによると、17世紀前後に活躍したフレールジャックという遍歴の外科医は、麻酔も消毒薬もなかった時代に年平均200例におよぶ尿路結石の手術を行い、患者の苦痛もさりながら、術後感染症で死亡率も高かったのに、なんせ旅の外科医であるから、執刀後は「あとのことは知らん顔」でどろんしたという。手塚治虫の「ブラックジャック」の元ネタかと想像するが、面倒見のいい手塚ジャックとは大違いである。

今年91才になる元日本航空学会の重鎮が、オスプレイがさんざん叩かれていたころ語ってくれた。人類は鳥のように空を飛ぶことを夢見てきた。モナリザのダビンチだって絵なんかより自分は飛行体の設計など科学者として歴史に名を残すと信じていたフシがある。ライト兄弟に始まり、ゼロ戦、ジェット機、ヘリコプターときたら、我々航空技術屋にとっては、滑走路が不要でジェット機並みに高速飛行できるオスプレイは長年の夢の実現で、パイロットの操縦が未熟な段階で悪口を言うのはモノを知らない人間だ…。

田んぼの多い秋田では数年前からヘリによる農薬散布はラジコンヘリに代わっている。首相官邸のドローン騒動後に、武家屋敷と桜で有名な角館の花見状況をドローンが撮影した写真が地元新聞の一面を飾った。医療界でも高度手術ロボット「ダビンチ」が普及し始め、世間を騒がした腹腔鏡手術も一般化している。危ない一部医師は問題だが、幸い、フレールジャックみたいにどろんできるご時世ではないのが救いといえようか。

NHK第2放送で毎週火曜午後8時半からと、同午前10時から30分の再放送。昭和天皇執刀医、東京大学・自治医科大学名誉教授・森岡恭彦先生84才が担当。6月末まで。

本を読もう(秋田県井川町国花苑 林宏・作)

森岡恭彦先生のテキスト

91才ヤスオじいさん大いに語る

角館 古城山からの眺め

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。