アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.53

大相撲 ~外国人力士たち~

都内に住む長女が膝の痛みで帰省した。私がたまに仕事に行く総合病院を受診したら、何やら珍しい病気の疑い、入院治療が必要ということでしばし自宅待機となった。

折しもテレビでは大相撲夏場所。夕食時に録画で娘と観戦した。ところが娘は横綱白鵬も人気の遠藤も逸ノ城も、郷土力士豪風(たけかぜ)も知らない。あまつさえ「相撲って、毎日同じ力士が戦っているの?」などという。体型と顔が似ていて違いが分からないらしい。現在、幕内力士42名中、日本人は25名、モンゴル人10名。土俵に上った力士のどっちが日本かと当てさせたら全部はずれた。

日本人と見分けがつかないモンゴル人力士の活躍は、角界にとって幸いである。国技である印象を損なわない。他の国の力士も土俵を長く勤めていると次第にチョンマゲが似合ってくる。ブラジルの魁聖やジョージアの栃ノ心は歌舞伎役者にしたいくらいだ。インタビューに答える彼らの流暢な日本語にも驚く。他のスポーツの外国人選手とは違う。

連日見るうちに娘もいくつかの特徴に気づいた。娘が好むサッカーに比べたら勝負は一瞬。早期にビデオを導入しただけあって勝敗が明快。勝っても取り口や態度が良くないと客席から拍手をもらえない。小兵力士が大柄力士を破る醍醐味。呼出しの声。懸賞金。立行司の華麗な衣装と立ち居振舞い。砂かぶりにお澄ましの着物姿…。

エジプト人でイスラム教徒の大砂嵐はラマダン断食と重なる本場所が心配だった。だが日没を待っていた兄弟子とちゃんこ鍋を囲む姿がテレビに映りほっとした。親方の注意には「はい。すみません」、ガッツポーズはご法度など、しきたり、所作、礼を叩き込まれる。日本語も上達するわけだ。

国技館で撮影した大砂嵐の写真をメールで送ってくれた患者や友人がいる。秋田の老舗和菓子本舗「榮太郎」の社長は名横綱大鵬の義弟で、大砂嵐の大嶽部屋(元大鵬部屋)に顔がきく。先日は用件そっちのけで四股を踏んでみせた。娘も病気が治ったら膝の強化にいいかもしれない。こんな巡り合わせでひいき筋がまた増える。

大砂嵐

森山から湖東平野を望む(左手は出羽丘陵、右手は大潟村と日本海)

撮影した右膝工事中の長女

見守る?筆者

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。