アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.6

美味しい固定観念 ~耳の痛い話~

芸術家という生き物は常識に挑戦するのが本業のようである。演劇、音楽、絵画はむろんで、サルバドーレ・ダリなどは、「銀行員が客の小切手を食べてしまおうと思い付かないのは驚きだ」と述べ、意味深な作品を多数残した。ベンチャー起業家も同様だろうが、逆に能や文楽など古典芸能は伝統を大切にし、政治行政となると常識と非常識の境目が曖昧である。

医療は案外保守的かもしれない。知識や技術の高度化により専門医を目指す(しかない)のは、医師側のいわば防衛で、何でも診る総合医は赤ヒゲ医者への回帰、医療ルネッサンスと言えよう。いずれにせよ、画期的な医療はあっても、常識破りは難しい世界である。

東日本大震災の医療救護活動も一段落ということで、先日、現地に赴いた医師たちの報告会があった。注目を集めたのが「心のケア・チーム」の話。避難所に行ったら玄関で拒否されたチームもあったという。日替わり医師に声をかけられても心は開けない、精神科医療への偏見などが主な理由のようだったが、真相は不明だ。

そこで鼻息を荒くしたのが古参の精神科医たち。人目をはばかると言って精神科を心療内科、メンタルクリニックなど耳触りのよい名称に変え、それが被災地ではこの体たらく、襟を正して「精神科医療チーム」と名乗った方が被災者も覚悟できたのではないか、心のケアなどと称して満足しているのは固定観念だ…。耳が痛い。

裏の畑で蕪を掘ってそのまま食べる近所の4歳児。親の注意も無視。爺さんが「蕪は洗ってテーブルで食うというのは大人の固定観念だ」とかばい続けたら孫は蕪をコテカンと呼ぶようになった。確かにその畑のコテカンは美味い。パン屋はパンを焼き、芸人は芸を見せ、幼児はダリのように固定観念を食うのが本業のようである。

初夏の日本海

秋田駒ケ岳チングルマ

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。