アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.75

薬が多くて… ~皆保険、フリーアクセスとはいうものの~

年を取ると愚痴(ぐち)と白髪(しらが)が増え、病気も増えて薬も増える。私が嘱託医をしている特養でも、新しく入所してくる老人の薬がやたら多く困惑する事が少なくない。施設では食事等の生活管理が行き届き、飽食三昧だった若いころからの薬はほとんど不要となる場合が多いのである。

「自分で飲みたいと思わない薬、親に飲ませたくないような薬は処方するな」と講義でおっしゃったのは聖路加病院の日野原重明先生である。学生時代に特別講義を受けたころ先生はまだ60代だった。先生の講義を思い出すような相談はうちのクリニックでも時々受ける。

80才の患者の息子が、「親父の薬を数えてみたら24種類もあった。この年でこんなに飲んで大丈夫だろうか」という。おまけに父親は物忘れが進み、薬を間違えるので家族は目が離せないからなお大変だ。こんな例は稀ではなく、神経質な人や認知症が始まった人は、不安が強いためか、ちょっとした症状ですぐ医療機関へ行く。すると内科から5つ、整形外科4つ、耳鼻科…といった具合に1つの科では少ないが合計24種といったことになる。

私の学生時代、日本の老人医療費は無料だった。ごみ箱に捨てられた大量の薬がテレビで放映され問題になったこともある。日野原先生のお話にはこんな背景があった。その後も実情はさほど変わらないまま時は過ぎ、昨今は高齢者医療の負担の上限引き上げが論議されている。国家予算100兆円の4割が医療福祉関連ともなれば、東京五輪予算の1丁、2丁、3丁のような豆腐の数え方では間に合わず、どこでも自由に受診できてタダに近い高齢者向けの現制度は、やっぱり高くつく。

前述の患者と息子には、とにかく手を打とうということで、各医師宛てに、「ご本人は認知症が始まり、日中は家に1人で正しい服薬が難しい状況。家族のいる朝と夜に処方を整理、できれば1日1回にして頂きたい」と薬手帳に書いた。1カ月後、薬は9種に減って、やれやれと思っていたらその3か月後、また15種…。物忘れと心気症の患者はまたあっちこっち別の医師に通い始めていたのだった。

秋田にもやっと梅が…

際どい日本の医療態勢(ゴヤの銅版画より)

我が道を…なかなか行けない

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。