アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.81

ほぐれない緊張 ~能代おなごりフェスティバル~

出勤前に腹が痛くなる、会社に着くと動悸がし、仕事が始まると手が震え…こんな相談は日常茶飯である。ストレスによる緊張症状だが、この夏、自分もたっぷり経験した。

リオのカーニバルは行ったこともないが、8月の浅草カーニバルは一度見た。出場チーム中トップクラスの『横浜サウーヂ』は、秋田県能代市で9月上旬に行われる『おなごりフェス』常連で、一番人気である。仙台すずめ踊り、盛岡さんさ、花輪ばやし、青森ねぶた、横浜中国龍舞、竿灯、能代七夕など県内外の団体が夏の名残を惜しみつつ広い道路をパレードする。

数年前から私は横浜サウーヂのダンサーと演奏者に給水などお世話するチームの一員としてほぼ1年おきに過去4回参加してきた。観客は多い年で30万人。まばゆい照明の中を主役らと行進するのは愉快で、各団体を間近で見られる役得もある。

7月末、サウーヂのメンバーである私たち地元のサンバ打楽器隊の師匠から、3年ぶりに参加できるかと話があった。北半球の女王といわれるサウーヂのクイーカ奏者に憧れていた私は、この話を給水係ではなく演奏と勘違いし「クイーカで」と返事してしまった。

クイーカは太鼓の皮の真ん中に取り付けた細い棒を、湿った布やスポンジでこすって音を出す。しかし、4年前に独学で始めたものの稽古もろくにしていない。それを知る師匠から数日後、「本当にやるのですね?」と演奏する曲のCDを渡された。聴くと我々の打楽器隊とは異次元の速度である。たちまち不安になり、給水係に戻ろうと決意した。が、師匠はもう手を打っていた。

横浜の女王による通信指導が始まる。退くにひけない。朝な夕な必死で稽古する私を家族は「顔が変。緊張?」と心配し、仲間は「精神科医だから緊張をほぐすプロだよね」とからかう。曲に合わせキーキー棒をこすり続けていたら隣家の犬がキャンと鳴いてもビクっとした。音が似ているのだ。

9月9日、本番。久々にお会いする女王に身を硬くして挨拶すると彼女は笑顔で私の楽器を調整してくれた。ド派手な衣装に身を包み、今年も12団体が次々出発する畠町通りへ。「先生、ふるえている」という者もいたが精神科医でも過緊張は手におえない。スタートの笛が鳴るや「引っ張ります!」と隣の女王。テンポを外すなと師匠に厳しくいわれている。女王のクイーカは時々大音量で咆哮し打楽器隊に気合を入れる。往復2キロ2時間、死にもの狂いでついて行った。

終わると棒は折れスポンジはぼろぼろ。「頑張った証拠!」と女王はねぎらってくれたが、慰労会で飲んでも解放感はなかった。それから3日間、緊張感はほぐれない。師匠が言うには、これをリオでは「灰の水曜日」といってカーニバル後のウツだそうだ。師匠の娘さんも「初めて浅草に出た時は私もそうでした」という。1週間後、女王からメール。「東北にもステキなクイケーロが誕生です。ようこそ、こちら側へ(^-^)」またもや、ニアミス…。

能代七夕

盛岡さんさ

花輪ばやし

横浜中国龍舞

青森ねぶた

横浜サウーヂ打楽器隊(バテリア)

横浜サウーヂ・ダンサー

クイーカ女王の笑顔と超緊張の私

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。