アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「精神科医のニア・ミス」No.95

世界遺産「男鹿のナマハゲ」 ~継承と変革~

秋田の冬の行事「男鹿のナマハゲ」が全国10カ所におよぶ来訪神・仮面・仮装の神々の一つとしてユネスコの世界遺産に登録された。他にも似たのがそんなにあったのか、男鹿のナマハゲに便乗しているのではないか、よそのモドキに埋もれてしまわないかとテレビの取材に不安を口にする住民もいたが、ともあれ、ナマハゲ保存会や行政らが長年続けてきた努力が報われたわけで、まずはめでたい。

日本海に突き出た男鹿半島に隣接する秋田市北郊の潟上市、大潟村、南秋田郡、三種町のナマハゲは消滅している。私が育った由利本荘市は半島から南へおよそ100㎞に位置するが、幼い頃ナマハゲ(由利ではヤマハゲだったか)は恐怖だった。真冬の夜におどろおどろしい姿恰好のナマハゲが「悪い子はいねがー」と大声で家に入ってくるのである。あの怖さは経験した人でないと分かるまい。

「ナマハゲは私にとってトラウマです」という男鹿の女性がいた。彼女はナマハゲの出ない地へ嫁に行くと宣言していたが、何とわが故郷の温泉宿に嫁いだ。その頃には由利のナマハゲも消滅していたから全く心配なかったのだが、あいにく姑であるおかみさんは気性が荒く、「ナマハゲ以上だ」と幼子を連れて逃げ出してしまった。とにかくナマハゲは恐ろしい。

一方、半島在住の別の女性はナマハゲ大好きといい、遺産登録を素直に喜んでいる。幼い頃のある大晦日、ナマハゲが現れる2時間も前から家の押入れに隠れていたところ、玄関から上がってきた1匹が押入れに直行し荒々しく戸を開けた。悲鳴を上げたその刹那、ナマハゲは面を取ってニッコリ笑った。兄だった。今は亡き兄の笑顔が忘れられないという。その地区では今もナマハゲを座敷に上げ、御膳とお神酒を振る舞う。こんな仕来りが残っているのはもはや例外的である。

潟上市内の病院に勤務していた平成10年頃、こんな話を院長に伺った。ある大晦日の夜に救急車が若者を運んできた。付き添いの大人たちはどうみても家族ではない。患者の体に何本もの藁が付着していた。事情を尋ねても口が重い大人たちの体にも藁がちらほら。ナマハゲの面をかぶれるのは独身の成人男性という習わしだが、人手不足のために未成年の高校生を起用し、各家々で頂いたお神酒が原因の急性アルコール中毒だった。当時からこの行事を担う若者は不足だったのである。

このように世界遺産だと騒いでも100を超える各集落ではナマハゲの担い手不足がだいぶ前から深刻で、それでも伝統を理由に集落外の人間の参加を拒み「若者」役を中高年が細々と務めている。忙しい大晦日に行われることもよそ者の応援をためらう理由の一つかもしれない。

男鹿市観光協会が企画しているナマハゲ伝道師は、ナマハゲを正しく理解し、伝統継承に寄与するサポーターを増やすのが狙いと聞く。伝道師の資格試験は受験者の8割が県外の人である。声をかければ彼らは喜んで面をかぶるだろう。日程も昔の1月小正月に戻せば時間的、気分的に余裕ができ、希望者を民泊などで準備段階から参加させることができる。

ナマハゲを家に入れるとお膳を出さねばならず、座敷も汚れるので玄関でお引き取り願う家が増えた。座敷だとお猪口だが、玄関だとコップ酒のため件の高校生みたいなことになる。これも数軒と契約し、観光客は『有料桟敷』並みに座敷で待遇したらどうか。『岡本太郎の東北』によれば、子供を脅し泣かせるのは大人社会に仲間入りさせる通過儀式である。これを宣伝し「子役」を募集するのもいい。平成24年から男鹿市は催行する集落に補助金3万円を出している。いずれにせよ伝統行事を継続してゆくには、日程の工夫、資金調達の方法、よそ者の活用がカギを握っているようだ。

ナマハゲの真山神社

お祓いを受けてナマハゲになる

山から降りてきたナマハゲは

「泣く子はいねがー!」と子供を泣かす

『岡本太郎の東北』

尾根白弾峰

尾根白弾峰(佐々木 康雄)

旧・大内町出身 本荘高校卒

1980年 自治医大卒

秋田大学付属病院第一内科(消化器内科)

湖東総合病院、秋田大学精神科、阿仁町立病院内科、公立角館病院精神科、市立大曲病院精神科、杉山病院(旧・昭和町)精神科、藤原記念病院内科 勤務

平成12年4月 ハートインクリニック開業(精神科・内科)

平成16年~20年度 大久保小学校、羽城中学校PTA会長

プロフィール

1972年、第1期生として自治医科大学に入学。長い低空飛行の進級も同期生が卒業した78年、ついに落第。と同時に大学に無断で4月のパリへ。だが程なく国際血液学会に渡仏された当時の学長と学部長にモンパルナスのレストランで説教され取り乱し、パスポートと帰国チケットの盗難にあい、なぜか米国経由で帰国したのは8月だった。

ところが今の随想舎のO氏やビオス社のS氏らの誘いで79年、宇都宮でライブハウス仮面館の経営を始めた。20名を越える学生運動くずれの集団がいわば「株主」で、何事を決めるにも現政権のように面倒臭かった。愉快な日々に卒業はまた延びる。

80年8月1日、卒業証書1枚持たされ大学所払い。退学にならなかったのは1期生のために諸規則が未整備だったことと、母校の校歌作詞者であったためかもしれない。

81年帰郷、秋田大学付属病院で内科研修を経てへき地へ。間隙を縫って座員40名から成る劇団「手形界隈」を創設、華々しく公演。これが県の逆鱗に触れ最奥地の病院へ飛ばされ劇団は崩壊、座長一人でドサ回り…。

93年に自治医大の義務年限12年を修了(在学期間の1倍半。普通9年)。2000年4月、母校地下にあった「アートインホスピタル」に由来した名称の心療内科「ハートインクリニック」開業。廃業後のカフェ転用に備え待合室をギャラリー化した。

地元の路上ミュージカルで数年脚本演出、PTA会長、町内会や神社の役員など本業退避的な諸活動を続けて今日に至る。

主な著作は、何もない。秋田魁新報社のフリーペーパー・マリマリに2008年から月1回のエッセイ「輝きの処方箋」連載や種々雑文、平成8年から地元医師会の会報編集長などで妖しい事柄を書き散らしている。

医者の不養生対策に週1、2回秋田山王テニス倶楽部で汗を流し、冬はたまにスキー。このまま一生を終わるのかと忸怩たる思いに浸っていたらビオス社から妙な依頼あり、拒絶能力は元来低く…これも自業自得か。