アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「栃木のステキ」No.13

手織り工房 のろぼっけの作家たち Vol.2

栃木県下都賀郡壬生町にある『手織り工房のろぼっけ』を訪ねた。工房では、数名の方々が熱心に織り機に向かっていた。まだ、寒さが身にしみる1月の末の取材であったが、工房の中は人々の笑顔でほっとするような温もりがあった。

「のろぼっけ」の代表、鈴木利子さん、鈴木さんの長男で作家の克弘(作家名カズ・スズキ)さん、次男の工房プロデューサーで作家の隆志さん、そして、鹿沼市出身の作家斉藤正子さんらが、それぞれ自作の手織りを仕立てた衣服で取材陣を出迎えてくれた。シックで存在感のある男性たちの上着や、機能的でおしゃれな色使いの女性たちの服装は、見た目にも楽しく、冬空のこの日の気分を晴れやかにさせてくれた。

為せば成る

斉藤さんは「のろぼっけ」に通いはじめて約10年、「平成5年にくも膜下出血で倒れて、右半身不随になりました」と、つらかった闘病の日々を振り返りながらゆっくりと話しはじめた。

「倒れてから言語障害にもなりましたので話すことができなくなったんですね。今まで自由に何でもできていたことが何もかもできなくなってしまいました。閉じこもったまま追い詰められて、『死んだほうがよかった』と、毎日毎日それしか考えられなかったんです。そんな私を見かねて、娘が『お母さんは治る力があるのよ。だからそういう力のあるお母さんが選ばれて病気になったんだね』と言ってくれた。そのことばに心動かされました。『あ、そうか、そういうふうに考えればいいのだ』と思えるようになったんです」

娘さんの懸命な励ましのことばは、生きるための一筋の光のように心に沁みた。「希望がわいてきました。いつか目にしたことのある『さをり織り』をやってみたいと思うまでになりました。思い切って『のろぼっけ』に電話をしてみたのです」

斉藤さんは、娘さんのことばをきっかけに絶望の日々から解放された。今は自分の手で布を織って作品をいくつも完成させて展示会に出展。織物作家として充実した日々を歩んでいる。

「この場所こそ不公平がないのです。本当にそれがないんですよ。障がい者も健康な人もみんな一緒になんです。『心のバリアフリー』のことば通りです。この工房に巡り合えたことが本当に嬉しいですね。だからこそ、この場所があることをみんなに知って欲しい。(かつての私のように)悩んでいる障がい者の方々をはじめ健康なみなさん方も知らないのはもったいないと思います」

デザインは利子さんと相談して決める。片手が不自由なので裁断をしたりしつけをかけたりするのは他の人にお手伝いしてもらうと話す。

「でも、ミシンは全部自分でかけるんですよ。ゆっくりゆっくりとね。為せば成るですね。前はピアノを教えていたんですが、今は、(織物作家になって)友達にファッションショーの写真などを送ると、『乙女みたいな顔をしている、よかったね、よかったね』って。考えようで、障がいを持つということも悪いことではないなって。バス賃は少し安くなるし(笑)。そういうことを考えたら良いこともあるよって、周りの人も良く見えるし、今までと違うなかで見えてなかったものが見えてきますね。その方がどういう方だったのかと違う人生で見ますから」

人生の極みを潜り抜けた斉藤さんの笑顔は、自信にあふれた「乙女」のように輝いていた。

心にマッチングした人生の選択

「のろぼっけ」の縁の下の力持ちが鈴木さんの次男の隆志さんである。15年間銀行に勤務していたという隆志さんは「のろぼっけ」に関するあらゆる仕事を実直にこなす。反面、やわらかなムードで工房全体をまとめている。そして今は作家としてもデビュー、自作の織りでつくったジャケットを着こなしていた。

「母たちが栃木県で初めての障がい者のための作業所(現『こぶし作業所』)を作る運動をしていましたので、物心ついた時には周りには兄と同じ方やいろんな障がいを持った方がいらっしゃいました。我が家を開放して作業所になっていた時もありますので、学校から帰ってくると障がいを持つ方たちが作業をしているというある意味では自然な環境で育ちました」と話す。理系が得意だった隆志さん、大学は機械工学科に進んだ。

「明確にこの学問をやりたいというわけではなかったんですね。機械工学科で実際に勉強をしてみると(自分としては)ちょっと違うんじゃないかなみたいなところがありました。就職する段になったとき、兄も障がいを持っているし、地元に帰ってきてどのような形かわからないですがサポートできるようにと、地元の金融機関に入りました」

しかし、地元の銀行入社から14年目、まさかの銀行破綻という大きな節目に遇った。

「その時、自分の人生というのはどういうことなのかなと、考えさせられました。このまま銀行に残ってやっていくのももちろん選択肢の一つではありますが、そういう生活でずっと終わっていいのかなって。子どもの頃からの教育というか、置かれた環境にマッチングした心の思いがわいてきて、思い切ってこちらの側に行ってみるのもいいんじゃないかと思うようになったんです」

人生の岐路にたった隆志さん。今までの経済的なものも含めて全部捨ててくるような決断をしなければならなかったいう。

「まして織りもやったことなければ仕立てなどまったく……。母もそうですが私も学校の科目の中で一番苦手なものが技術家庭とか美術でした(笑)。できることならやりたくないという思いもありました。しかし、やってみると意外に面白かったりもするんですよ。人間食わず嫌いって相当あるなと思いましたね。一番苦手で絶対これやりたくないと学生の時思っていたことを、今やっているわけなんですよ」。そして、「のろぼっけ」に入って10年、作家として作品作りを手がけ、展示会への出展などの活動を始めている。

「作家などという大そうなものではないんですが、やはり、みなさんと一緒にプロデュースなりなんなりをしていく上でも、いろんな部分で分かっていないとできないんですね。仕立てもそうです。幸い近くに仕立ての先生がいらっしゃって教えていただいています。ここ何年かで『のろぼっけ』の作家の方々もかなりレベルアップしてきまして、個展もどんどんやるようにはなってきたんですが、まだまだ世の中で『障がいを持った方の作品』という目で見られてしまうことが多分にあるんですね。それをひっくり返して、逆に障がいがあるがゆえに健常者よりも面白いものが作れる、それをどんどん製品化にしていくことを実現していきたいと思っています。商品としてクオリティを上げていくために、製品化するときのためにレベルアップしていく必要があることを痛感していますので、さらに一歩一歩高みを目指していきたいと思います」

これからが隆志さんのプロデューサーとしての手腕のみせどころ!作家生活も充実してきて、さらに新たな10年へと夢に向かって試行錯誤していくことであろう。

カズ・スズキと巨匠ミレーの末裔との出会い

テーブルを囲んでみんなの話をにこやかに聞いていた代表の鈴木さんは『手織り工房のろぼっけ』を立ち上げて20年になる。「のろぼっけ」の最初の作家として利子さんが支え導いたのが知的障がいのある長男の鈴木克弘さんこと「カズ・スズキ」である。利子さんは約四半世紀の歳月を噛みしめるように語った。

「正子さんが言っていましたように、絶望に陥った時に、今まで見えていなかった死へと続く道を見てしまいます。私も何度も同じ思いをしました。その『魔の道』への心の迷いを断ち切ることが出来たのは、正子さんは『のろぼっけ』との出会いであり、私は45年前に一瞬見せてくれた長男克弘の心の奥にある私が見落としていた命の輝きだったのです」

カズ・スズキはすでに作家として日本においては宇都宮を中心に東京(銀座、青山)、京都そして高知など各地で展示会を開催している。海外においても1997年にパリ日仏文化センターにて、また2006年にはフランスのモントルイユ市の展示会に招待されたパリ在住の画家トモコ・K・オベールによるインスタレーションに作品を提供。T・K・オベールは「カズさんは作品もさることながら、彼の顔は魅力があって素敵ですね。私の大好きな純粋なアーティストの顔です」と話している。

そして同年、印象派の世界的な巨匠であるJ.F.ミレー(「晩鐘」「落穂ひろい」)の末裔(ヴェロニック・ミレー)の工房に作品が展示された。ミレーの子孫である画家ヴェロニックは「美しい色彩で温かみがある現代アート」と評した。日本人の織物作家の作品が初めて巨匠の末裔の工房に展示された瞬間であった。

「のろぼっけ」の20年の歴史には独立して自分で織物工房をはじめた方々もおられるという。100名くらいの方々が「のろぼっけ」にきて織ることだけではなくさまざまなものを受けて巣立っていった。鈴木さんは設立当時の様子を振り返って話す。

「その頃は何しろ織り物工房など県内でも初めてのことだったので、障がいを持つ人たちができるとは思わなかったんです。それに織り物自体がよくわからない。だから、皆さん信用しないんですね。なんか騙されるんじゃないか、障がい者を上手く使って騙すんじゃないかって思われてしまいました。私自身も初めてで何かが得意で始まったわけではなかったので、本当に一つひとつやりながら形で示していくしかなかった。一つずつ自分も手探りでやるようにね。だから20年も時間がかかったんです。しかし、やればやるほど織物の良さがわかってきました。多分克弘に障がいがなかったら、私は一生『ものづくり』をしていなかったと思います」

この子にも命の輝きがある

「この『ものづくり』は正子さんがおっしゃったように一つのことがあったので出会ったライフワークとでもいいましょうか。克弘が小学校一年生のときですが、それまでの学校の所見は『IQ測定不能、自閉的傾向が強くて情緒不安定』ということなんです。だから本当に自分の殻に閉じこもっていて、一緒にいても、確かに体はそこにあるのですが、本当に心が通じないっていうんですか……、将来どうなるんだろうか、という思いだったんですね」

約40年前、宇都宮大学附属支援学校の最初の支援学級が、附属小学校の中を借りて1クラスだけ立ち上がった。克弘さんは第一期生として入学した。

「その小学校の運動会の時に附属小学校と支援学級のこどもたちが一緒に運動会をしたんですね。それまで克弘は運動会の練習も何もしないし、何しろ自分の席から立たない、もう先生がひっぱっていってもすぐに戻ってしまう、そういう状態だったんです。ところが、一年生のかけっこの後にこの子たちが走ったんです。この子を入れて11名の支援学級のこども全員が疾走したんです。その時に今まで感じなかったもの、『ああ、この子もちゃんと命の輝きがあるんだ』と。眼前で見せつけられました」

それを何とか探し出したいと模索したという。鈴木さん自身も同時に輝きをとりもどしたときだったのかもしれない。

「地域の中で走らせてもらった運動会、だから、多分そのカギは地域の中にあるんだろうと思ったんです。あれから40年になるんですが、たどり着いたのが『織り物工房のろぼっけ』だった。だからここは普通に織物を教える教室ではなくて、いろんな障害を持った人、また健常者の方でもいろんな思いを抱えた方も見えます。だから、その方に添って心から発するものを引き出してそれを織物に表現する教室なんです。こちらが教えるということではできないのです。種を植えて芽が出てくるのを待つようにして一緒にやっていく、それの積み重ねです。だから今20年たって、皆さんがそれぞれすごい力を発揮できるようになっています。一緒に添いながら私も一緒になってやっていくこと、一緒に育てられたということです。そういう土壌がよかったのかなと思います」

織物は自分自身のためにも

「障がいを持った人たちが自分の力でやっていかないと世の中は変わっていかないんですね。他の人にやってもらったんでは健常者は外側からしかわからないでしょ。陣取り合戦じゃないけれど、障がいを持った人たちも自分でできる範囲で陣を取っていかないと自分たちの居場所がなかなかできないと思うんですね。それにはこの織物はものすごく適していると思います。誰でもできるし、その人にしかできないものができる」

このような思いでここまでやってきた利子さんだが、しかし、今はそればかりではないと話す。

「私も80歳に手が届くようになって、同年輩の人と話をすると認知症の年齢になった事を実感します。わからなくなってしまう前に何かできるものを体に覚えさせておけば、自分が認知症になってもそれは続けられるんじゃないかって思うんです。だから自分自身のためにということも1つの目的の中に入れて、万が一どこか具合が悪くなって、人様の助けを借りなくてはならないようになってもできる、そういう場所をちゃんと確保しなくてはならないと、今度は自分自身のために考えています」

「さをり織り」の創始者である城みさをさんは100歳を超えても織り機の前に座って織っているという。

「たとえ頭はぼけても元気な頃に身体で覚えたものは忘れないよ、字を忘れたり名前を忘れたりそういうことはあるけども、芸術というものは消えないんだ」とおっしゃっていた。

「刺激を与えれば与えるほど、(脳細胞は)増殖していくというんですね。それは障がいを持った人たちが実証していることです。そういう大先輩の先生がちゃんと私たちの将来に道をつけてくださったので、私もそれを踏襲していきたいと思っています」

『手織り工房のろぼっけ』代表としての鈴木さんの貴重なことばである。このことばに老後の不安が払しょくされた方たちがたくさんいることだろう。老後も豊かな人生の一部としてたくさんの色で明るく飾られるような気がすることばであった。

(2015年1月28日取材)

手織り工房「のろぼっけ」

斉藤正子さんと作品の数々

作品を織る斉藤さん

鈴木隆志さんと作品

隆志さん

作品を織る隆志さん

カズ・スズキさん

カズ・スズキさんと作品

鈴木利子さん

利子さんとカズ・スズキさん

のろぼっけの作家たち

のろぼっけの工房内

あざやかなカラーの糸が並ぶ棚

のろぼっけの作家たち

手織り工房「のろぼっけ」

栃木県下都賀郡壬生町緑町1-14-14

TEL/FAX0282-86-7289

http://www.norobokke.com/