アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「栃木のステキ」No.14

荒井退造の偉業を長く語り継いでいかなければならない‐塚田保美さん、谷博之さん‐

太平洋戦争末期、日本本土で唯一の地上戦が行われ一般住民が戦争に巻き込まれていった沖縄。米軍が迫る中、沖縄県警察部長として県民の疎開に奔走し、沖縄県民から「島守」と讃えられる荒井退造。この荒井の偉業は、戦後70年を経てようやく、故郷である栃木県でも光が当てられることになった。きっかけは、荒井の母校・宇都宮高校の同窓会報に掲載された「沖縄県民を救うべく職に殉じた荒井退造警察部長」と題する一文。寄稿したのは20年にわたって荒井退造の研究を続けてきた郷土史研究家の塚田保美さんである。「荒井の偉業を長く語り継いでいかなければならない」。宇高関係者を中心に反響を呼び、荒井を顕彰する機運が高まった。6月に開催された塚田さんの講演には会場に溢れんばかりの人たちが集まった。8月8日には宇都宮市の映画館「ヒカリ座」で、沖縄県最後の官選知事として荒井と二人三脚で住民保護に尽力した島田叡(あきら)氏を通して沖縄戦の実相に迫った「生きろ~戦場に残した伝言~」(TBSテレビ制作)の上映会とコンサートが開催される。

荒井退造追悼上映会コンサートを企画した塚田さんと谷博之さんに話を聞いた。

―6月の講演会には、会場から溢れんばかりの多くの人たちが駆けつけました

塚田 立ち見でもいいから会場に入れてくれてくださいとスタッフの方にお願いしました。何で、こんなに多くの人が来てくれたのか。やはり、荒井退造さんの魅力かなと思っています。ようやく、栃木県でも荒井退造という名前が知れ渡って、関心を持たれる方が増えてきているんじゃないかと思います。

―県民のみなさん、それぞれの思いで荒井退造さんをみている

塚田 戦後70年ということもありますしね。私は荒井退造さんを研究して20年になりますが、この人はいつか世に出さないといけないと考えていました。なかなか、その機会がなかったんです。

―荒井さんを研究するようになったきっかけは

塚田 私は郵便局に40年勤めていましたが、歴史が好きなので、ずっと郵便の歴史を勉強していました。郵便局退官後、第二の職場で荒井退造という人の名前を初めて知りました。「沖縄県の最後の警察部長で、島田知事と一緒に摩文仁の丘の森に入っていくのが目撃された最後の姿」ということを聞かされました。

ただ、その時は島田さんに関する文献がなかったため、それ以上のことは何もわかりませんでした。

『沖縄県民斯く戦えり』(田村洋三著)など沖縄戦に関する本を読みながら側面から荒井さんや島田知事のことを想像していました。大田実海軍中将さんが打った電文「沖縄県民かく戦えり、後世、沖縄県民に対し格別のご配慮あらんことを」は、島田、荒井両氏の影響があったことが後でわかりました。

荒井さんの本格的に研究を始めるようになったきっかけは、偶然、荒井さんの長男、荒井紀雄氏の著書『戦さ世の県庁』を手にしたことでした。願ってもないものが見つかったと思い、5回くらい読み返しました。研究の材料になりましたね。

「六十万県民ただ暗黒なる壕内に生く。この決戦に敗れて皇国の安泰以て望むべくもなしと信じ、この部下と相ともに敢闘す。」
 昭和二十年五月二十五日荒井退造警察部長が、限られた時間と乏しい設備のなかで、内務省にあてた電文である。
 沖縄県民を一人でも多く救うべく命をかけ、殉職された沖縄県最後の警察部長荒井退造氏。その終焉の地となった摩文仁岳に、共に殉職された島田叡知事と荒井警察部長の立派な碑が建立されている。
 平成4年、第二の職場で偶然に元国土庁官房審議官荒井紀雄氏による『戦さ世の県庁』を拝読する機会に恵まれた。私はかつて「沖縄県民かく戦えり、後世県民に対し格別のご配慮あらんことを」の電文を寄せて戦死されて大田実海軍中将に深い感銘を受けていただけに、思わず手にとって読みすすむうちに、なんと荒井退造警察部長が本校大正九年卒業の大先輩であることを知り、さらに感銘を深くした。

《塚田氏の寄稿(宇高同窓会報第60号)より》

―長男の著書に偶然出会い、荒井さんの研究を始めたのが約20年前ですね

塚田 『戦さ世の県庁』を読むと、それまでに読んだ沖縄戦関連の資料の知識が活きてくる。断片的な情報がつながってきました。それで、いつ(研究の成果を)発表するかなと思っていたのですが、一昨年、宇高の同窓会報に寄稿したのです。かなり反響がありました。「我々の先輩に、こんな立派な人がいたのか」と。宇高の卒業生以外の方からも「これは、宇高だけじゃない、栃木県の誇りだ」と言われました。

とにかく一人でも多くの人に荒井さんのことを知っていただきたい、何かのかたちで顕彰しようということで6月に、私と谷さんが代表となって実行委員会を組織し「戦後70年記念 沖縄県警察部長荒井退造追悼講演コンサート」を開きました。このイベントには、沖縄から元副知事の嘉数昇明(かずのりあき)さんら5人が駆けつけてくださいました。

―それだけ沖縄では重要な方だったということですね

塚田 島田さんと荒井さんのことは、沖縄では知らない人がいないというんです。

 島田さんは兵庫県出身で、兵庫との交流はあるんです。高校生の交流もある。栃木との交流はいままでまったくなかった。

塚田 沖縄県の高校野球新人大会の優勝校には島田さんの出身地である兵庫県から贈られた優勝杯「島田杯」が授与されています。

昭和十八年七月、荒井氏は沖縄県警察部長(現在の県警本部長)を拝命した。その頃になると日本の敗色も濃厚となり、沖縄が戦場になる恐れが予想されるようになってきた。昭和十九年六月の閣議で沖縄県民十万人の疎開が決定され、荒井部長もその必要性を特に感じ、積極的にこの問題に取り組んだ。しかし肝心のI知事が非常に消極的で、県の有力者達も日本は必ず勝つという軍部の宣伝を信じ、また一部の声高な無責任主観論もあって、疎開への気運はなかなか高まらない。荒井部長は「睫毛に火がついてから慌てても間にあわんぞ」と声を挙げ、警察部を総動員し、講演会や住民集会を開いて疎開の必要性を説く傍ら、半ば強引に計画をたててそれをI知事に承認させ、どんどん実行に移していった。

〈中略〉

荒井部長は部下警察官を督励し、疎開への取り組みをすすめる一方、防空壕や敵上陸に備えて、横穴式壕の掘削指導などを行った。事実荒井部長は、気が気ではなかったのである。サイパン島には二万六千人の住民がいた。米軍上陸後日本軍はその二万六千人を持て余し、非常に悲惨な結果を招いている。沖縄には四十二万人の住民がいる。沖縄に米軍が上陸すれば、多くの住民が犠牲になることは目に見えている。疎開は急務だった。
 昭和十九年十月、那覇市を中心に沖縄本島に対し大空襲が行われ、那覇市は火の渦となり大混乱の様相を呈したが、その中を必死になって住民の避難を行ったのは、荒井部長の指導する警察警備隊だった。この大空襲により、県民の疎開への機運が大きく高まった。翌二十年三月までに、台湾を含めて七万三千人を疎開させることができた。
 昭和十九年十二月、I知事は突然空路上京し、そのまま帰県せず、翌一月香川県知事を拝命するという不可解な人事が行われた。そして沖縄県知事に大阪府から、島田叡氏が任命された。
 沖縄県知事に任命された島田知事は、(昭和二十年)一月末に決死の覚悟で潜水艦により赴任して来られた。島田知事は非常に人格高潔な方で、今まで暗雲のただよっていた県庁の雰囲気が、霧が晴れたように明るくなった。
 米軍は四月一日に遂に沖縄本島に上陸、本島は忽ち分断される。住民を少しでも安全な場所に移動させなければならない。荒井部長と島田知事は、警察警備隊と県職員を指揮し、安全な地域を探しながら誘導したが、それに伴う食糧の確保は大変なことだった。荒井部長と島田知事は壕内で市町村会議を開催、食糧確保や壕内の生活指導、住民の士気高揚をはかることなどを議題としたが、このような非常事態のなかで、このような会議を開催することができたということは、驚嘆に値する。それは知事と部長に寄せる市町村の深い信頼があったからではないだろうか。《同》

塚田 沖縄での島田知事顕彰碑除幕式を控えて忙しい中5人もの方が沖縄からイベントに来てくださり、せっかくだから日光でも案内しようかと思ったのですが、嘉数さんたちは「私たちは観光で来たのではない、あくまで、荒井退造さんのために来たんだ」とおっしゃられ、「まず行きたいところは宇高。生徒と話をしたい」ということでした。宇高の校長の案内で宇高校内と荒井さんのお墓、母校の清原南小学校(旧鐺山小学校)に行きました。

宇高では、校長先生が古い倉庫から退造さん関係の資料を探し出して、嘉数さんたちに見ていただきました。

国文学者で宇高の校長を務めた笹川臨風先生が「瀧の原精神」というものを教えましたが、瀧の原精神とは何ぞや、それは質実剛健です。嘉数さんは「荒井さんは、やっぱり、この教育を受けたんですね」とおっしゃりました。このときは、生徒会と新聞部の生徒たちに来てもらったのですが、嘉数さんが「荒井さんはどういう精神でああいう仕事をなさったと思いますか」と尋ねると、生徒から「瀧の原精神、質実剛健」という答えが返ってきました。

(昭和二十年)六月十四日、島田知事と荒井部長は陸軍司令部に向かい、司令官と共に自決する決意を述べたが、長参謀長から知事、部長は行政官であるから自決するに及ばないと言われ、同十八日牛島司令官と長参謀長に最後の挨拶をされて、軍医部壕に移られた。そこには軍人や住民の負傷者がうごめいており、ひめゆり隊員たちが懸命に看護に当たっていた。野村毎日新聞支局長は投降することを勧めたが、島田知事は「君、一県の長官として、僕が生きて帰るわけにいくかね。沖縄の人がどれだけ死んでいるのか知っているだろう」と言われ、傍らの荒井部長も深くうなずかれた。
 六月二十六日(二十三日ともいわれる)島田知事と荒井部長は軍医部壕を出て、同行していた徳田・小渡両属官を、身の安全をはかるよう退かせ、摩文仁岳で最後まで付き添ってきた仲宗根官房主事と仲村警部補に、これ以上来ることには及ばないと言って、最後まで同行を願う両氏を無理に帰し、摩文仁岳中腹の森の中に入って行かれたのが、最後に目撃された姿であったといわれている。その後お二人のご遺体は発見されていない。

〈中略〉

戦争は多くの住民を巻き込み、取り返しのつかない不幸をもたらす。日本国土で唯一の戦場となった沖縄県。このような悲惨なことを二度と犯してはならない。そしてその蔭に、島田知事や荒井警察部長のように立派な方のおられたことを銘記すべきである。昭和二十年一月、軍は戒厳令を発令しようとしていた。もしこれが発令されると、行政権はすべて軍が握ることになる。しかし島田知事の人格はそれを許さなかった。もし戒厳令が発令されていたら、もっと多くの沖縄県民が犠牲になったことは間違いない。そして、島田知事が、もっとも頼りにしたのが荒井警察部長であった。島田、荒井コンビがあと半年早く実現していたら、沖縄県民の犠牲をもっと減らすことができたのではないかと悔やまれる。
 笹川臨風校長の説かれた「瀧の原精神とは何ぞや」――私はこの稿を起こしながら、荒井退造氏にその精神の真髄を見た。《同》

―6月のイベントで、荒井さんの人物、足跡をあらためて知ることができました。多くの方が荒井さんに関心を持ったと思います。イベントをやった大きな意味がありました

 あのイベントが今回の映画会につながっていきました。終戦の月に島田知事と荒井退造を中心にしたこのドキュメンタリードラマを上映して、より多くの人に見てもらおうじゃないかという話が持ち上がってきて、いろんな人の協力を得て実現の運びとなりました。

塚田 一昨年、私が同窓会会報に寄稿した1か月半後、終戦特番でテレビ放送されています。主人公は島田知事で準主役が荒井さん。私の寄稿を読んでいた人はドラマの筋がよくわかったということでした。その後、あっちから、こっちから手紙をいただきました。感触がいいなと思いました。今回はこのドキュメンタリードラマの総合監修を務めた方にも加わっていただいてイベントを企画しました。この方は6月のイベントにも来ていただきました。先のテレビ放送時にはなかった沖縄の人たちの思い出話などが挿入され、再編集された作品になっています。

 映画館での上映にあたって制作者側とも相談をしたのですが、入場料をとらずに自主上映という形で実現することになりました。

塚田 総合監修の方も「映画館で観ると迫力もあってすごいでしょう」と言っておられました。

「生きろ~戦場に残した伝言~」(TBSのホームページから)
 この番組は「沖縄の神様」と今も慕う人たちがいる、戦中最後の沖縄県知事を務めた島田叡(しまだあきら)の実話を、ドラマとドキュメンタリーでお送りする終戦特別企画です。
 昭和20年1月、内務省からの異動で赴任し、6月23日の沖縄戦終結の日までの5ヶ月間を、沖縄県民と共に生き抜いた島田叡沖縄県知事。赴任前、大阪府内政部長であった島田は、沖縄戦の始まる2ヶ月前に沖縄県知事の内示を受けた。赴任後は、命がけで沖縄住民を守るために様々な改革に着手し、陸軍との交渉を試みました。
 番組では、そんな島田の生き様を、過去の戦争フィルムと関係者の証言、当時の手紙などの貴重な資料を基に、報道ドラマとして再現。ドキュメンタリーと併せて、島田を通して沖縄戦がどのような戦いであったのかを伝えていきます。また、島田は中学時代から野球のスタープレーヤーとして名を馳せており、知事としての島田だけではなく、「野球人としての島田」「人間としての島田」の魅力も描いていきます。
 ドラマでは、緒形直人が島田叡を演じます。そのほか、島田と共に命がけで疎開を進める荒井退造警察部長を的場浩司、陸軍の第三十二軍司令官の牛島満を西郷輝彦、海軍の大田実沖縄根拠地隊司令官を石橋凌がそれぞれ演じます。

塚田保美さん

谷博之さん

荒井退造追悼上映会コンサートのチラシ

企画の打ち合わせ中の塚田さん(左)と谷さん