アートセンターサカモト 
栃木文化社 BIOS編集室

随想・宿痾佳情⑩

『保母さんとの再会』 97・11・4

亡父が中国で勤めていた会社の回想録が上梓され、当時の保育園の保母さんが、宇都宮にお一人でご健在なことを知り、すぐに訪ねた。5歳だった私の、年々薄れゆく異国の町の記憶を少しでも補強しておきたい、と。戦後25年が過ぎていた。師範学校生のとき、相次いで両親を亡くされた先生は、卒業を待ち兼ねて遥々中国奥地に赴任。弟と妹の教育のため、破格の僻地手当がどうしても欲しかったそうだ。その代償の、粟と稗だけの日常は、内地での想像を遥かに越えていた。

戦況の悪化につれ、奥地から順に学校が閉ざされた。夜陰に乗じての逃避行。東ヘ、もっと日本人の多い東の町ヘ。夫も2人の子も、死と紙一重の月日だった。かくて最後にようよう辿り着いたのが、私たち一家もいた武漢近郊のN製鉄の社宅であった。敗戦後は、社員の一団に加えてもらって栃木へ。私たち一家は、会社の都合で6月に既に引揚げて来ていた。

一昨年秋だったか、中国残留者の肉親捜しに関連して、ある記者が先生との会見を試みた。だが、2年前に他界されていた。古びた録音テープだけが残っている。

敗戦後、主として旧満州にとどめられ人々が、50年以上を経てさしたる成果もないまままた帰国した。私たちとは地域が異なるが、ふと先生を思い出した。

『初めての第九』 97・12・9

初めて『第九』の生演奏を聴いた。歳末恒例のこの催しを、今までは軽佻浮薄、付和雷同の極みと無視してきたが、来春とされたビッグ・バンが早くも始まった歓びを、新日本フィルとともに高らかに歌いあげたかったからだ。

現在の官主導による「甘えの構造」の確立時期を、15年戦争末期とする人もいるが、やはり明治政府自らが手掛けざるを得なかった殖産興業の諸業を後に次々に破格値で政商に払い下げていった経緯を、私たちはもっと重視してよい。水俣の惨劇は、政官業の癒着にその原因の大半を見出すことができるが、同時にこれと全く同じ構図の悲劇が明治中期の渡良瀬川沿岸で起きている。

韓国でも政権と財閥の結託が崩壊し、経済が大混乱に陥った。ただ、あらゆる面で遥かに重層的な構造を持つわが国では、その分だけ混迷の度合いも深いし、「日本的」なるものからの脱却も時間を要する。とまれ、今年は、大変革予兆の年として記録されるに違いない。対人地雷禁止NGOのノーベル賞、一般市民による浅野知事の誕生とともに『曙光』が見えたと信じたい。だが、現在の保守政治家・支持者連の資質の、救いようのない低さをどうする?

『いい時代に生きた?』 98・1

2か月ほど前、県北のとある山間に小さな露天風呂を見つけた。国道を僅かにそれただけなのに、耳には松籟とはるか崖下の瀬音しか届かない。余所者である私も、気楽に入れる温泉の多いとの県の豊かさを十分に感じている。

わが身辺でも、いくつかの問題が片づかぬまま新年を迎えたが、どこの家庭でも大なり小なり似たようなものだろう。ま、これが人生なんだと缶ビールを呷りながら、広くもない湯舟でつるベ落としの晩秋の薄闇に染まる。

日本の経済は、これから本格的な不況期に入るって?突然息子が聞く。

いや、池田内閣時代やバブル経済の時と比べれば不況って言えるだろうが、経営者も一般市民も自らの責任でことに当たるという『世界標準』にいやおうなくわが国が組み込まれる以上は、それが普通の状況になるだろうよ。

答えながら私は、老後の蓄えを持たぬ病いの親をどうしたらいいか、狭いアパート住まいからの脱出すら叶わぬ息子の苦悩を思いやる。取り敢えず、あと2年ちょっとで厚生年金を受けられる私はまだよい。真に苦労するのはお前たち、それからだぞ。はてさて、私たちはいい時代に生きたのだろうか。

フリースペース「仮面館」にて

野添嘉久

野添嘉久

1940年、東京に生まれる。早大卒。1973年、宇都宮市築瀬町にフリースペース「仮面館」を開店。以後、約10年間、音楽、演劇、映画等、広い分野にわたる活動を続ける。 1980年より市民塾〈足尾〉を主宰。『なぜ、今、足尾か』(下野新聞社)を編集。1998年 没。