アートセンターサカモト 栃木文化社 BIOS編集室

「ビオス電子版スペシャルトーク」No.16

農村の伝統と共にロマンの思いを豊かな未来へつなぐまち ―芳賀町 見目 匡 町長―

芳賀町は、栃木県の南東部に位置する町で、東は市貝町、西は宇都宮市、そして南は真岡市、北は塩谷郡高根沢町に隣接し、町の中央を五行川と野元川が流れており、中央部に県内で代表的な米どころとして知られる水田地帯が広がっている。

また、果樹や野菜類をはじめ、施設園芸・畜産などの都市近郊型農業が盛んで、特に「幸水」「豊水」「にっこり」などの梨は、町を代表する特産品で県内有数の生産地であり、「にっこり」は海外でも高く評価されている。

町には芳賀工業団地と芳賀・高根沢工業団地があり、高度な技術を有する企業や研究所など約100社の立地が進み、町とともに大きく発展している。

芳賀町を牽引している見目 匡(けんもく ただし)町長は生粋の芳賀町民。「分かっているだけで私で17代目です。芳賀町を出るのは旅行のときぐらいで、あまり町から出ることはありません」と話す。まさに「芳賀町っ子」、芳賀町民のリーダーとして日々額に汗して働く多忙な町長を訪ねて、さまざまな話を伺うことができた。

(芳賀町役場HP参照)

見目 匡 町長

芳賀工業団地(航空写真)

田園風景と文化

日本は「瑞穂の国」と言われるくらいですから稲作が中心の農耕民族です。芳賀町は、まさに、その「瑞穂の国」を代表するようなところです。栃木県においても芳賀町、北隣の高根沢町、今はさくら市ですが旧氏家町は栃木県の穀倉地帯です。縄文・弥生時代から見ても、どうも豊かなところからは天下人が出ないのかもしれませんね。土地が豊かですと「攻めるより守る」ですから、戦国武将らも名を成した人物はあまりいないようです。

芳賀町は土地が平らで稲作に適したところですから、ひたすら農業中心の国作りが行われていたようです。そのような中で芳賀町の伝統のお祭りは育まれてきました。約280年前から続いている伝統ある祖母井(うばがい)神社夏祭りをはじめ、何かというと農業を中心としたお祭りが今も町民一体となって継承し守られています。

また「かしの森公園」で、「芳賀町さくら祭り」が開催されます。春になると周辺道路約3kmにわたって植えられている桜が満開になり見応えがあります。夏には「芳賀温泉ロマンの湯」のある道の駅はがで開催される花火大会があります。五行川の水面に映る5000発の花火は圧巻です。

祖母井神社祇園祭

祖母井神社祇園祭で挨拶する町長

芳賀町さくら祭り(かしの森公園)

道の駅はが

芳賀温泉ロマンの湯(露天)

文化的な面としては、明治30年後半ごろ本町の東高橋出身の福田たねさんという方が現在の東京藝術大学に進み、日本を代表する画家・青木繁と恋に落ちたのです。青木繁がたねさんの実家の近くにアトリエを構えて、そこで描いたのが『わだつみのいろこの宮』(1907年国の重要文化財/ブリヂストン美術館蔵)です。益子町在住だったハンガリー人の彫刻家ワグナー・ナンドールさん(後に日本に帰化/故人)が福田たねと青木繁の生き様は「ロマン」であると、「ロマンの碑」を建てました。素晴らしい感性のアーティストが芳賀町にゆかりのある碑をアトリエのあった場所の反対側に建ててくれました。

私自身、焼き物を中心に日本画、漆などの文化・芸術に興味がありまして、ナンドールさんが益子に美術館(ワグナー・ナンドール アートギャラリー)をつくったということで、2度ほど見に行ったことがあります。特に『哲学の庭』には感動しました。一人、その光景を目にしたとき、不思議な感覚にさせられました。「ロマンの碑」が建つ場所は近くを五行川が流れ、ナンドールさんは「子どもからお年寄りまで、なんとなく来て時間を過ごしてもらえる空間で、田園風景の広がる芳賀町には合っている。そういう意味合いで、この場所に建てました」と話していたということを聞いています。

また、弘法大師が経文を書いて埋めたと伝えられる経塚や般若寺跡があります。般若寺は明治時代に焼失し、現在跡地には10代将軍家治公の供養塔と般若寺の歴代僧の墓碑が残っています。般若寺の図面等が残っていれば再建という話も出てくるのでしょうが、文献が少なすぎるのです。供養塔は昭和55年に栃木県有形文化財に指定されました。

和久奈南都留(ワグナー・ナンドール)設計制作の
「ロマンの碑」

青木繁の代表作「海の幸」の紹介板と対岸の作品を
模写したタイル画

般若塚

般若寺の供養塔

農作物「米」と「梨」

芳賀町は同じ芳賀郡の茂木町、益子町等の八溝山系の文化ではないのです。先ほども話しましたように隣接する高根沢町、旧氏家町と同じ水源で高原山系の水です。縄文時代に稲作の文化が入ってきたわけですが、むかしから豊かな地域だったのでしょう。稲作を中心に豪族が栄えたので古墳が多いですね。

日本全体を見た場合は農地の比率は国土の2割台、ところが芳賀町は54%くらいは農地。水田が町全体の46%くらい。それだけ見ても、稲作というものが如何に重要視されていたかがわかると思います。芳賀町は「土質が良くて、お米が美味しい」という話は以前から聞いていましたので、私が町長に就任してから、平成27年度産米の食味を関係機関で調べてもらいましたら、「特A」相当の評価でした。

また芳賀町の特産は梨です。生産量はイチゴのほうが多いのですが、梨は江戸末期から作られ明治期から本格的に栽培されるようになりました。昭和のころは栽培者が200人くらいいて、面積も200ヘクタールくらいあったのですが、梨の栽培は冬の寒いときに吹きっさらしの中で剪定をしなくてはいけないし、収穫も機械ではできないということで、今は栽培面積も栽培者も半分に減ってしまいました。

しかし平成27年産と28年産の梨を海外に輸出し、かなり高い評価をいただきました。27年産はシンガポール、インドネシア、28年産はマレーシアへ輸出しました。マレーシアにはトップセールスということで私も町の職員と一緒に現地に行きました。「にっこり」は10月の中頃に収穫するのですが管理をきちんとしていれば翌年の1月くらいまでおいしく食べられます。私がマレーシアに行ったのは1月の下旬でしたが、国内では1個500円前後で販売していますが、クアラルンプールの高級デパートでは、日本の3倍近い価格です。驚いたのは、旧正月が近いということで贈答用にと、女性が5キロの箱を4箱、2個入りのものを2箱買って帰られました。アジアのお金持ちは華僑、中国系の方が多く、その方たちにとって「黄色いもの」「丸いもの」「大きいもの」は縁起がいいと好まれるそうで「にっこり」はまさにそのものです。

デパートの方に伺うと、「にっこり」は珍しいし食感がいいということでした。マンゴーやバナナなどねっとりとした食感の果物が多いなかで、梨のシャリッとした食感がいいのかもしれません。これは、いけるなと実感しました。

小さな町が2年間やってきたことが功を奏したのか、今年度は「全農とちぎ」が大々的に輸出するということになりました。また、栃木県の農産物のリーディングブランドは28年度まではスカイベリー(いちご)、とちぎ和牛、なすひかり(米)の3品種だったのですが、29年度からは、そこに「にっこり」を加えていただきました。

「にっこり」は、栃木県の試験場が開発したものです。したがって県外では、まだ、ほとんど生産されていません。栽培面積が一番多いのは宇都宮市で芳賀より2ヘクタールくらい多いのですが、29年度から芳賀町で「にっこり生産日本一」をキャッチフレーズに栽培面積を増やします。「にっこり」の場合は苗木購入費全額を町が助成し、その他の品種は3分の1を助成します。やり方、売り方によって、これから相当伸びるだろうということを海外に出て実感しました。

芳賀町の農業をどう守るか。先ほど話しましたように、農地の比率が多いところですので、芳賀町の農業の底上げのために「にっこり」栽培面積の拡張などを始めたのですが、農業の大変なところは、工業製品や商業製品と違って生産をしたものを自分たちで値段をつけられない、市場に左右されることです。そのへんが一番辛いところなのですね。

特A相当の評価を得た芳賀町のお米

海外でも高く評価されている「にっこり」

道の駅直売所で売られている梨

直売所で今年の梨を吟味する町長

「万智子とはがまるくんの芳賀町探検記」

町のキャラクターの「はがまるくん」は梨の頭巾に稲穂の刀、イチゴの飾りを身に着けた忍者です。2016年にキャラクター「はがまるくん」を登場させた絵本を、芳賀町を他の地域の方々にも広く知っていただくために発刊しました。行政の広報・広聴活動は町民向けが中心です。人口が増えているときはいいのですが、これから自治体間の競争とか、職業や自分の考え方で住む場所が変わっていくという傾向になってきていますから、その中で、人口減を食い止めるためにも町外県外に発信して芳賀町のことを知ってもらうようにしなければならない。どうしたらよいのかと考えました。

戦時中に芳賀町に疎開をしていた児童文学者の漆原智良先生が「芳賀町は第二の故郷」とおっしゃっていてくださったのを知って、町長に就任してすぐに電話をかけて外に向けた絵本を制作する話をさせていただきました。漆原先生とつながりのある作家立松和平さん(故人)の長女イラストレーターの山中桃子さんに絵を依頼し大変好評です。

さらに桃子さんの絵を紙袋やクリアファイルなどに自由に使わせてもらっていますが、活字や写真より手描きの良さがありますね。活字(絵本)は残りますので、町民の方々ばかりではなくて、他の地域の方々に広く芳賀町を知っていただけます。

絵を担当した山中桃子さん。自作「ヤモリ」の絵の前で

記者会見の様子。左は児童文学作家の漆原智良氏

有数の工業団地、これからの課題

日本は戦後、農業国から工業国へと変わっていきました。まず、臨海工業地帯の開発がすすめられ、昭和30年代後半から内陸にも工業団地を造って働く場所を確保して所得のアップを成し遂げてきました。宇都宮市の清原地域や芳賀町の工業団地は昭和40年代に造成が始まりました。栃木県においても台地でも平らなところは珍しいようです。ですから、戦時中は清原に飛行場があったわけです。

現在、芳賀町の工業団地の面積は366ヘクタール、100社以上の企業が誘致されました。生産工場も多く立地していますが、比較的、研究部門の企業が多いことから景気が悪くても税収にはあまり影響がなく安定しています。ありがたいことだと思っています。

芳賀町の人口は1万6千を切ってしまっているのですが、芳賀の工業団地で昼間、従業員として働いている方が約2万2千人います。町の人口より工業団地で働いてる人のほうが多いんです。昼夜間人口比率(夜間人口100人当たりの昼間人口)は、約2倍の193.9ということで、これは全国の市区町村別で、何と全国で12位なんです。栃木県ではダントツ1位ですし、ちょうど東京の千代田区のような、ほとんど人は住んでいませんが日中は官庁街で人がわーっとくるというような場所が上位に入ってくるのですが、そういう中において田んぼの中の町が全国で12位です。「日中の人口が増えるところが都会だ」と言われているのだから、芳賀町は「いなかとかい」、何と表現したらいいんだろうと笑っているんです。

先人が工業団地を造成して優良企業が入っていただき、これまで順調に来ました。これからも続くようにするにはどうしたらいいのか考えると、一つは便利性、それがないと誘致は難しいと思います。特に外資系は少しでも条件が悪くなると撤退してしまう。日本の企業であっても、そういうことが起きます。いつまでも立地し続けてもらうための対策を行政として考えていかないといけない。道路の整備であるとか、ストレスなく通勤できる便利性、日本でも有数の渋滞箇所だと言われているものですから、宇都宮市と一緒になってLRTの事業も導入していこうということです。

工業団地も条件が整う場所が少なくなっているのですが、20ヘクタール強、拡張しようということで、計画を進めているところです。32年度にも分譲の予約をできるのではないかと考えています。

そういう形で農業の分野だけではなくて、工業の分野にも力を入れる。あとは、住む場所が心配ですので県から無償譲渡された芳賀高校の跡地である祖陽ヶ丘(うようがおか)に宅地を造成します。いまごろ町施工は珍しいのですが、124区画造成し31年の1月か2月には分譲を開始する計画です。

これからの町の繁栄のための課題を一つひとつクリアして、より良い芳賀町を作り上げていくためには、どのような努力も惜しみません。

町長を囲んで若い役場の職員たちと