96歳を前にして小説『愛と復讐のマンハッタン』を書き上げた。1956年から19年間にわたりニューヨークに勤務。小説は、その体験をモチーフに、戦争の傷跡が残る時代に海外に渡った企業戦士たちの物語である。下村さん、妻で声楽家の洋子さんに、小説のこと、アメリカでの暮らし、そして長い年月を共にしてきた二人の穏やかな今の暮らしについて聞きました。
多様な人種が存在する街 ニューヨーク
── 小説『愛と復讐のマンハッタン』を読ませていただきましたが、「まえがき」が印象的です。物語に大きく影響するエピソードですが、あまり知られていないことなので、とても興味を持ちました。
1945年4月、ドイツの首都ベルリンはソ連軍により陥落した。
ソ連軍の司令部は、そのベルリン攻落を成し遂げた先兵たちを讃え、一週間の間、ベルリンでの略奪とレイプの許可を与えた。
この許可を与えられた全員が、中国か、モンゴルからの東洋人だった。
このことが、この物語に大きく影響することになる。 (「まえがき」から)
下村 主人公の日本のビジネスマンが好意を寄せる女性、実在する方ですが、その女性から直接聞いたことです。彼女はドイツからの移民ですが、同じく戦後ドイツから移民して来た女性と一緒に暮らしていましたが、いつになってもその女性を私たちに紹介してくれませんでしたので、その理由を聞いた時に、同居人の女性が体験したことを明かしてくれました。
ベルリンを制圧したソ連兵に対して、一週間の間、何をしてもいいという許可が与えられたのです。……「その一週間の影響で、今でも東洋人を見ると気分が悪くなるというのです。マンハッタンの地下鉄などで東洋人を見かけると、やがて気分が悪くなり吐き気がするというのです」 (『愛と復讐のマンハッタン』から)
── 下村さん自身、東洋人ということで、いやな思いをしたことがあるのですか。
下村 アメリカに来たばかりの頃に、真正面から「お前の国とは戦争した」と言われたことがあります。商売を有利にするために戦争の話を持ち出すということあるのでしょうね。アメリカで長く生活している間にアメリカ人の日本に対する考え方もどんどん変わってきました。良いほうにね。同じアメリカ人でも、ユダヤ系、フランス系、イギリス系とでは、まったく違います。
── この小説はどのような思いで書き上げたのですか。本の帯には「アメリカで働く日本の若者、ビジネスパーソンに贈る。戦後の復興を支え海外に出て行った企業戦士たちの物語」とあります。
下村 アメリカにはこういうことがあるということを知っていただきたいと思って書きました。マフィアの存在、組合との駆け引き、妊娠中絶が出来ない州があること、そして黒人問題。小説に出てくるエピソードは事実に基づくものです。ニューヨークの大停電の話もありますが、そのときは地下鉄をはじめ、すべての交通機関が止まってしまいました。交差点の信号も作動しませんから車はあちこち突っ込んでしまう状況でした。その大停電から10カ月後、ニューヨーク近郊の病院は出産が相次ぎ、大変でした。
洋子 アメリカ時代のことが懐かしいんでしょうね。それを書き残しておきたかったんだと思います。
バハマの暑い冬
── 8年前、やはりニューヨーク勤務時代に体験したことをベースにした小説『摩天楼の谷間から』を書き上げたときにお話を伺いましたが、その時、パソコンを習い始めたと聞きました。この小説はパソコンで書いたのですか。
下村 そうです。すごい友人がいまして、パソコンを一から教えていただいた方です。わからないことを電話で聞くのですが、時には車を飛ばして我が家まで駆けつけてくれることもありました。
洋子 主人は目がよく見えないですから、パソコンの画面に文字を大きく出して書いていました。「ちょっと読んでくれる」と言われ、ひたすら赤ペンで校正していました。
下村 パソコンがなければ、全く書けなかったですね。もう少し最後をうまく書きたかった。
洋子 どういうふうにまとめたかったの。
下村 バハマに一緒に行ったことを書きたかった。小説の最後、バハマに招待されたけれど予定があって断ったというエピソードを書きかましたが、実際には洋子と一緒にバハマに行っているんです。ニューヨークは雪で大変なのに、そこは天気が良くて海水浴が出来る。ギャンブルも出来るし、ゴルフもやりました。冬に行くと、まさに天国です。小説のストーリーには直接関係ないので、詳しくは書きませんでした。
洋子 クリスマス休暇で行ったんです。ニューヨークはすごく寒いじゃないですか、でもバハマについたら、もう、すごく暑い。私の感覚だとクリスマスって寒いわけですよね。すごく暑いのにクリスマスツリーが飾ってあって、不思議な感じでした。楽しく遊んでニューヨークのケネディー空港に戻ったら、とても寒く、車が雪に埋もれていました。あれは、すごい思い出です。雪かきして車に乗って、やっと家に帰れました。
下村 ずいぶん、いい思いをさせてもらいました。毎年、世界中の同業者が集まって製品の値段の打ち合わせをします。そこに出席するため、スペイン、イタリア、フランス、イギリスなどヨーロッパ各国に行きました。なかなか日本ではできないようなことを経験させてもらいました。
中学時代の「英語」が運命を変えた
── 海外で働きたいというのは、若い頃の夢だったのですか。
下村 偶然ですね。今考えると、私の運命を変えたなと思うのは、東京の海城中学時代です。海城中は、 戦時中、江田島の海軍兵学校の予備校でした。そこで勉強すれば海軍兵学校に入れました。家からも近かったので海城中に入学しました。その当時、中学生は「38 の銃」(三八式歩兵銃。日本軍の主力小銃として使用された)を持って訓練していました。学校に兵器があるわけです。戦後、進駐軍が兵器を没収に来たんです。中学生ですから物珍しくて、その様子を周りで見ていました。英語の先生は誰一人として米軍との話が通じないんです。それを校長(島祐吉・海軍中将)が見ていて、これじゃ、大変だと思ったんでしょうね。その後、優秀な英語の先生を採用し、我々の授業にもどんどん教えにきました。その先生たちが言うには、「赤ん坊が言葉を覚えるのは何で覚えますか。字を書いて覚えるわけじゃないでしょう。お母さんが日本語を喋ってくれるから覚えるのです。英語も同じです」と。今まで、This is a bookとか書かされていましたけど、「そんなこと全部忘れなさい」と。「まず話すことが言葉を知るための第一歩だ」ということで、ものすごく発音の勉強をさせられました。 会社に入ったら、先輩にきれいな英語を書く人が何人もいたのですが、海外のバイヤーが来ると私を指名するわけです。それは発音が良かったから。それで私は海外に行かされたのです。島中将が英語の先生を変えなかったら私の運命はまったく変わっていました。
下村 もうだいぶ忘れてしまいました。アメリカ映画などを観ていると言葉はわかるのですが。最近のアメリカ映画に出てくる言葉は、ちょっとわかりにくい。特に若い人の言葉は粗っぽくなってきています。新しい言葉も出来ているようですし、スラングも多い。 私の場合は東海岸のアメリカ語ですから、西海岸の言葉とは違います。トランプ大統領の言葉はよくわかります。
「小説を書くことに未練はない」
── お二人とも、とても元気です。今はどんな生活を
下村 ゴルフに夢中になっていたのですが、数年前からできなくなってしまいました。
洋子 二人だけじゃつまらないので、東京の友人も誘って、私の運転で日光や鬼怒川の温泉に出かけています。
── 音楽活動のほうは
洋子 今は福祉施設や幼稚園などで歌ったり、教えたり。家で声楽の指導も続けています。お声が掛かれば、いつでも。〈洋子さんは2024年5月、「傘寿」を祝うコンサートを開催した。洋子さんの指導を受けた声楽家も共演。日本の唱歌のほか、ドイツやイタリアなどの歌曲も披露した。〉
下村 中学の同級生は117人いたのですが、今も健在なのは私と横浜に住んでいる友人の2人だけになってしまいました。大親友で、毎日のようにお互い電話を掛け合うのですが、だんだん話すことがなくなってきます。
── 小説を書くことは
下村 これで終わりです。
洋子 96歳になりますから。
下村 文章は若々しいでしょ。この続きを書け、と言ってくださる方もいるのですが、いろいろな体験を掘り起こして書くのは大変です。もう小説を書くことに未練はありません。
作家の下村徹さん(左)、妻の洋子さん(右)
書籍情報
・書籍名:愛と復讐のマンハッタン
・著 者:下村 徹
・発 行:株式会社パレード
・TEL : 03-5413-3285 FAX : 03-5413-3286
・ISBN 978-4-434-36387-0
・価格:1,650円(税込み)
下村 徹
1930年、『次郎物語』の著者下村湖人の三男として生まれる。慶応義塾大学卒業後、大同通商(本社・東京)に入社。1956年から19年間アメリカのニューヨーク支店で勤務。1978年、代表取締役専務及び海外事業取締役に就任。1990年、両役職を辞任。著書に『摩天楼の谷間から』『ドナウの叫び ワグナー・ナンドール物語』『友を裏切った男』『白鳥のいる場所 ある障がい者支援施設の物語』がある。宇都宮市在住。
下村 洋子
宇都宮市生まれ。東京芸術大学声楽科卒業。同大学院独唱科修了。戸田敏子、中山悌一氏に師事。文化放送音楽賞。民音コンクール入選。1974年ドイツ国立フランクフルト音楽大学留学。ゲルトルーデ・ピッツィンガー、ハンネス・リヒラート、ラルフ・ラインハルト各教授に師事。帰国するまでヨーロッパで100回を超える公演を行い、帰国後も数々のコンサート、オペラ等で活躍すると共に、後進の指導に当たる。東京芸術大学講師、洗足学園大学講師、兵庫教育大学助教授を歴任。

